みすず書房

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ジョン・ラスキン『ゴシックの本質』

川端康雄訳

「建築は不完全でなければ真に高貴なものとはなりえない、というのは荒唐無稽な逆説にみえるが、それにもかかわらずそれはきわめて重要な真理なのである。そしてこれは容易に証明できる。というのも、建築家というものはすべてを完璧にこなすことができる万能の存在だとわれわれは思い込みがちだが、何もかもすべてを自分の手でなすことはできないのだから、次の二者択一を強いられている。すなわち、むかしのギリシアや現代の英国の流儀で配下の職人たちを奴隷にし、彼の仕事の水準を奴隷の能力に応じて引き下げ、それを堕落させるか、あるいは職人たちをあるがままの姿でとらえ、彼らの弱点を長所とあわせて示すようにさせるか、そのどちらかの途を選ばねばならない。後者の途を採るならば、ゴシック的な不完全さをともなうことになっても、つくりだされた建物全体はその時代の知性がなしうるかぎりもっとも高貴なものとなるであろう」
「だが、その原則はさらに大きく広げて述べることができよう。私は例証を建築だけに限ったが、それが建築だけにあてはまるかのようにして放っておくわけにはいかない。これまで私は不完全、完全という語を、はなはだしく未熟な仕事と並の正確さと技術をもって仕上げられた仕事とを区別するためだけに用いてきた。そして私は、ひとえに労働者の精神が表現の余地をもてるように、いかなる程度の未熟さも容認してもらいたいとお願いしてきた。だが正確にいえば、よい作品というのはいかなるものであれ完全ではありえないのであり、また完璧さを要求することはつねに芸術の目的を誤解している徴候なのである」(以上、本書22-23節より)

「ゴシックの本質」は『ヴェネツィアの石』の一部(第2巻第6章)ながら、同著刊行の翌年――ウィリアム・モリスによるケルムスコット・プレス版以前――にはもう単独著として出版されている。そのさいに付された副題は「芸術における労働者のほんとうの役割」。
美学の中心的概念に「天才=才能」でも「創造行為」でもなく「労働」を据え置いたのはラスキンがはじめて――であったかどうか。『ヴェネツィアの石』第2巻が刊行されたのは1853年。まさに大英帝国の絶頂期であり、と同時に『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845年)や『資本論』第1巻(1867年)「労働日」の章を思い起こしていただきたいのだが、工場法が制定され、工場監督官が出現せざるをえないほどに底辺においては過酷きわまる環境がつくりだされていた。「自由な」労働力にもとづく剰余価値生産のための社会的分業が強力に編制された時代のただなかにあって、ラスキンはこれにまっこうから異議を唱えようとしたのである。
ラスキンいわく、「われわれは分業という文明の偉大なる発明について大いに研究し、大いにそれを究めてきた。ただし、この命名はまちがっている。じつは分割されているのは労働ではない。人間である」。そして建築装飾の体系中、本書で推奨される「革命的装飾」とは、定義からして「施工にあたる者が下位に置かれることをまったく認めないもの」なのだ。
死を予感したマルセル・プルーストをヴェネツィアへと旅立たせたばかりか、モリスにギルド的アソシエーションを起こさせ、ガンジーに農園を開設させたラスキンの思索は、まさにここから始まったのである。




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