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堀江敏幸『余りの風』

「『余りの風』は、十数年前に刊行した『書かれる手』とおなじく、さまざまな媒体に発表した批評的な散文をまとめたものだが、両者を貫く細い自問の線の質は変わっていない。文芸時評のような顔はしているけれど、分類を拒み、既成の枠からはみ出そうともがいている書法じたいに、あってない、ないけれどあるはずの盲点をこそ言葉のうちに探ろうとするはかない夢の痕跡が、すでに見て取れる。」(本書あとがきより)

自著について、かくも適切にして魅力的な記述ができる作家(エクリヴァン)はまことに少ない。平凡社ライブラリーで再刊された『書かれる手』は、三浦雅士による解説、それに応答する堀江敏幸によるライブラリー版「あとがき」(2009年)を読むためだけにでも入手する価値のある本だが、2000年、単行本時の「あとがき」では、この本の必要を問われたら「まだ脳髄が生物学的に柔軟であったころに書かれた文章のなかに、現在の私の方向性がすべて出そろっていることを確認しておきたかったからだ」と答えておきたいと書いていた。

『書かれる手』に収められた文章の多くは「早稲田文学」に発表されている。そしてユルスナールをめぐる表題作「書かれる手」は畏るべし、なんと22歳という若さで書かれたもの(オリジナルは卒業論文)なのだ。須賀敦子追悼「文藝別冊」に「幻視された横道」を発表したのが34歳。フランス滞在を挟んだ十年間に、堀江敏幸は紛れもない「作家」になっていた。しかも自ら確認しているとおり、この本にはその後の方向性まで、すべて出そろっていた。

年齢にこだわるが、こんどの『余りの風』は35歳から現在までに発表された文章、そのうち山田稔『コーマルタン界隈』(みすずライブラリー版)解説、高田博厚『フランスから』(講談社文芸文庫版、初刊はみすず書房、1950年)解説の2本がいちばん古いものである。「古い」と言っても、「自問の線の質は変っていない」のだから、執筆発表順に配列することはさほどの意味を持たない。編集に当たって重要なのは、読み進むにつれて頭のなかに形づくられる、あるいは気分が動いて行くためにふさわしいリズム、それだけであった。収録する文章の対象は、堀江敏幸にとって父母もしくは祖父母に相当する世代の作家、その多くは著者の言によれば「会えなかった作家」に限定された。

「1980年代の古井由吉の散文は、競馬関係の文章も含めてすべてが相互的に浸透しあっている」「藤枝静男を読んだ者は、もう二度と、これまでとおなじ感覚で「悲しい」という言葉を口にすることができなくなる」「小島信夫は、運動を無造作に惹き起こしたうえで、その欲望を無効にする」「須賀敦子は、積極果敢な迷いの意義を消すことなく、いつまでも待ちつづけるだろう」「山田稔という作家はその冷却装置にスイッチが入れば入ったで、そのことじたいを悔やむ人なのである」「(『神秘のモーツァルト』で)ソレルスは、小説で見せる自伝的なエピソード以上に内的で、身体的なものを語り手に担わせている」「ジャック・レダは、言葉の液化現象に抗う」……。対象となる作家の作品をきちんと読んだ者であれば大きくうなずかざるを得ない、堀江敏幸の一言一言は、正確無比でありつつ、先達へのリスペクトを一瞬も失うことがない。

世に面白い小説はある。先鋭な批評もある。気の休まるエッセイもあるし、役に立つ時代論もあるだろう。しかし、言葉を用いていっさい手を抜かず、先達がそのときどきに可能な最大限の努力を自らに課しながら書いてきた文章の連なりに対して、自身もまた現在の文学を生きている作家が記したエッセ・クリティックは稀である。『余りの風』は近年最良の書物と言って過言ではないと思う。




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