みすず書房

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土門拳『死ぬことと生きること』

〈大人の本棚〉 星野博美解説

戦前から1970年代後半まで、昭和の激動を捉え続けた土門拳。『筑豊のこどもたち』『ヒロシマ』から『古寺巡礼』まで、日本と日本人の本質をフィルムに焼き付けた写真家のエネルギーはどこから生まれたのか。『死ぬことと生きること』は、土門拳がその写真への向き合いかたを生き生きと語るエッセイ集だ。

まず、はじまりは「ぼくの名前」。
〈ぼくの名前はドモンケンと読むのである。(…)山形県生れの正真正銘の東北人である。〉

〈いわゆるアマチュア時代というものは、ぼくには一日もなかったのだ。〉
24歳の時、宮内写真場の門生となる。自由に使える時間はなく、「寝床大学」と称して蒲団の中で本を読みあさり、着物にアンゴーを隠し持ってお使いに出かけた。
〈都電の中で、丁度向かいがわに坐っていた少年が大あくびをした瞬間をスナップしたのも、そんなお使いの途中だった。〉それが『アサヒカメラ』月例で入選したデビュー作、「アーアー」だ。
26歳で日本工房にカメラマンとして採用され頭角を現した後、戦後は報道写真家としてのスタートを切る。44歳の時に、最初の写真集『風貌』を刊行。数々の著名人との撮影は丁々発止のものだった。
〈モチーフのコンディションが悪かったり、相手の人物の機嫌が悪かったりすると、ゾクゾクするほど嬉しくなり張切ってくる。〉
その頂点が、梅原龍三郎を激怒させたエピソードだろう。
〈怒りに燃えるその顔は、高野山金剛三昧院の「赤不動」のような、実に逞しい顔だった。実に男性的な美しい顔だった。(…)ぼくがさがしていた梅原龍三郎そのものが、そこに現前していた。〉

カメラ誌の選評でアマチュア写真家に多大な影響を与え、「リアリズム論争」を巻き起こしたのち、49歳で『ヒロシマ』を、51歳で『筑豊のこどもたち』を刊行し、日本中に大きな衝撃を与える。50歳の時の脳出血で右半身が不自由になるが、「古寺巡礼」の撮影と同時に、安保反対集会、三池闘争、羽田闘争の取材も続けた。
〈赤ん坊の頭ほどの砕片がビューンビューンうなりを立てて飛んでいく。機動隊のジェラルミンのタテはガシャンガシャンとぶざまな音を立てる。(…)ガチャンと神経質な音がしたと思ったら、頭の上のパチンコ屋か何かのガラスの看板が割られてバラバラ落ちてきた。〉「デモ取材と古寺巡礼」では、現場の真っ只中にいながら助手に救出されたことを悔しがっている。

そして65歳の時に初エッセイ集『死ぬことと生きること』を刊行。それにしてもこれは不思議なタイトルではないだろうか。生きて、やがて死ぬという順番が逆転して、一度死んでから、また生を生きているようだ。

〈わたしたちは事実に対するいわれのない軽視をやめよう。そして真に写真に撮るに値する事実を差向かおう。〉
〈カメラというものは、シュプレヒコールみたいに、人間の叫びをこだまし合う手段に使うことがぼくの期待であり、またそれが本当の役目ではないかと思う。〉

土門拳の写真は、生きている。その言葉も生きている。
昭和という時代を強く刻印しながら、今なお新鮮な「過去」の写真。かれらの生き生きとした現在は、写真家ののこした「眼の文章」の中に息づいている。




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