みすず書房

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江口重幸「デイヴィッド・ヒーリーと『双極性障害の時代』」

(江口重幸「監訳者あとがき」より抜粋)

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本書は、デイヴィッド・ヒーリー著、Mania: A Short History of Bipolar Disorder. Johns Hopkins University Press, 2008の全訳である。原題をそのまま訳すと『マニア(マニー)──双極性障害小史』ということになるが、邦題のタイトルは少し内容に立ち入って『双極性障害の時代──マニーからバイポーラーへ』とした。原著はジョンズ・ホプキンス大学出版局から刊行されている「疾病史(Biographies of Disease)」シリーズのうちの1冊である。

著者のデイヴィッド・ヒーリーに関しては、『抗うつ薬の時代』『抗うつ薬の功罪』や、『ヒーリー精神科治療薬ガイド』等、いくつかの著作がすでに訳されて、それらの邦訳ではヒーリーの著作を精力的に紹介してきた田島治によるていねいな紹介が行なわれている。さらにはヒーリーのサイトを訪れれば、最近の活動や講演を含め、ほぼすべての研究業績などを知ることができる(http://davidhealy.org/)。したがって以下簡単な紹介にとどめたいと思う。

デイヴィッド・ヒーリーは、1954年ダブリンに生まれ、ダブリンとケンブリッジで医学と精神医学を学び、その後英国精神薬理学会の事務局長を経て、現在、カーディフ大学(北ウェールズ)心理学的医学部門で教鞭をとる精神科医である。先のサイトに見るような膨大な数にのぼるそれぞれ創意あふれる論文、共著論集があるが、以下に入手しやすい主要な単著を挙げる。これらはこの領域のすでに「古典」と呼ぶにふさわしい地位を獲得している。

The Antidepressant Era. Harvard University Press, 1999(『抗うつ薬の時代──うつ病治療薬の光と影』林建郎・田島治訳、星和書店、2004)
The Creation of Psychopharmacology. Harvard University Press, 2002.
Let Them Eat Prozac: The Unhealthy Relationship between the Pharmaceutical Industry and Depression. James Lorimer & Company Ltd, 2003; New York University Press, 2004(『抗うつ薬の功罪──SSRI論争と訴訟』田島治監修、谷垣暁美訳、みすず書房、2005)
Mania: A Short History of Bipolar Disorder. Johns Hopkins University Press, 2008(本書)
Pharmageddon. University of California Press. 2012.

これらと並行して、忘れてならないものに、世界各国の精神薬理学者へのインタヴュー集であり、地味ながらヒーリーの各著作の個性記述的な部分の深みと魅力の源泉になっている3巻の大著、The Psychopharmacologists. vol. 1-3, Chapman & Hall 1996, Edward Arnold 1999, 2000がある。また精神科関連の専門職に限らず患者・家族も気軽に参照でき、しかもさまざまな知識が盛り込まれた精神科治療薬のガイドブックも、最新のものは5版を重ね、Psychiatric Drugs Explained. 5th edition, Churchill Livingston, 2009(『ヒーリー精神科治療薬ガイド』冬樹純子訳、田島治・江口重幸監訳、みすず書房、2009)として刊行されている。

さらには、精神医学史家のショーターとタッグを組んで電気けいれん療法の歴史について論じたShock Therapy. Rutgers University Press, 2007や、医療人類学領域へのヒーリーの影響を刻む(彼自身1章を記している)論集Global Pharmaceuticals. Duke University Press, 2006等も出版されている。

さて本書であるが、その内容を簡単にまとめると、躁病と狂気(マニーにはこうした意味もある)それから現在の双極性障害にいたる精神医学の歴史である。『ヒポクラテス集成』に描かれたマニアから始まり、体液学説、ウィリスの描くマニア、19世紀はじめの精神病院の設立以降の記述の変遷がはじめの数章でたどられている。その後、循環性の狂気をめぐるパリでのバイヤルジェとファルレの闘争や、カールバウムの記述やクレペリンの躁うつ病が紹介される第3章があり、それ以降は何度読んでもそのたびあらたに刺激される、リチウムの歴史、スコウとシェパードの論争(そこには秋元波留夫が現われる)、躁うつ病から双極性障害への視点の変化、「気分安定薬」の誕生とバルプロ酸やカルバマゼピンの歴史(ここでは大熊輝雄の業績が紹介されている)が論じられる。それらは、ペリスの晩年の日々を描く哀切に満ちた記述をはじめ、登場人物の個性が浮き立つエピソードをまじえて物語られている。

そして第7章以降は、双極性障害と診断される子どもたち(それも2歳や4歳)と、彼らへの薬剤投与による医療事故がとりあげられる。そうした「治療」を可能にした、製薬会社が大きく介在して製作された科学的データと臨床試験論文、さらには企業のマーケティングを中心とした「疾患の売り込み」等々、雪崩を打つような勢いで展開する精神医学の「変質」過程が描かれている。

一般の読者はもちろん、とくにリチウムをはじめとする気分安定薬を服用したり処方したりしている読者は、特別な感慨にとらわれるだろう。それらは盤石の科学的根拠があるとされる、治療のファーストラインを飾る薬剤であるが、いずれも、さまざまな精神医学者による論争や人間ドラマに彩られ、製薬会社の思惑に左右され、偶然性に溢れる曲折の末に臨床の場に登場していることを改めて知ることになるからだ。

全体を貫くこうした骨太のストーリーをとりまくようにして、さらに興味をかきたてられるエピソードや批判的視点がちりばめられている。例をあげれば、英国の裁判事例を中心とした、マニーや部分的狂気と司法精神医学(責任能力)の関わり合いを論じた部分、ヒーリーの地元であるウェールズの一精神病院の長年の入院患者の統計をもとにした微小史とその分析、精神分析が登場するまでにすでに繊細な観察眼で行われていた臨床記述の紹介、20世紀末から合言葉のように唱えられている「エビデンスに基づく医療(EBM)」に対する明確で強力な批判。

この最後のものは、EBMが今日の精神医学の核心に「情報還元主義」(ヒーリーの造語)的な──つまり患者の主訴の情報のみを集めて操作的診断基準に当てはめ、即診断と治療に結びつける──粗雑な方法論をもたらしたのではないかという批判であり、これに対し、ヒーリーは本来の生物学的精神医学の立場から、精神療法的な領域をあえて再考するように促す「プラセボ」効果の議論などを説得的に展開している。