みすず書房

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江口重幸「デイヴィッド・ヒーリーと『双極性障害の時代』」

(江口重幸「監訳者あとがき」より抜粋 [4])

[4]

ヒーリーの議論、とくに本書の第7章以降で論じられている(次作『ファルマゲドン』等にもつながる)議論には誇張もあろうかと疑う読者や、企業が臨床試験結果によるエビデンスの確立を最大限のマーケティング・ツールとし、精神科医がそれにただロボットのように従うという図式を事実とは考えにくいと感じる読者もいるかもしれない。精神科医の中にもそういう感想をいだく人はいるだろう。しかしここに書かれていることは、残念ながら真実なのである。精神科領域の薬剤の臨床試験は、出版バイアスが顕著なものの代表として論じられているほどである。(例えばE.H. Turnerらの論文Selective publication of antidepressant trials and its influence on apparent efficacy. New England Journal of Medicine, 358; 252-260, 2008を参照されたい。PubMedで無料検索できる。)

2008年には、アメリカで精神薬理学界のトップと製薬企業との「不健全」な癒着ぶりが大々的に報じられた。2009年には、欧米主要医学雑誌に投稿する際に著者に課せられる利益相反の開示がさらに一段と厳しくなり、その後の派手派手しさが抑えられた北米の精神医学会の様子などを見ると、学界や医療メディアは製薬企業の影響力にたいする自浄的な力を少しずつ回復しつつあるように見える。

こうした大きな流れを作り出したもののすべてとは言わないが、その要所要所で、『抗うつ薬の時代』から『抗うつ薬の功罪』、そして本書『双極性障害の時代』にいたるヒーリーの議論や、彼が推進している薬害リスクを含めた裁判等の支援活動が影響を及ぼしているのではないか。その前線は依然として流動的な中間地帯である。本書の邦訳が、こうした流れを過去のものとするために少しでも役に立てばと思う。

これから数十年が経った将来、今日の精神医療の複雑で混沌とした有様をふり返って、その構造や力動を何とか解明したいと考える人物がきっと現われるに違いない。その時、『抗うつ薬の功罪』と本書『双極性障害の時代』に記された一連の事実が、20世紀末から21世紀初頭の精神医療の幾重にも錯綜した年代記を解読するうえで、そのストーリーの核心になることを痛切に知ることになるであろう。本書に刻まれているのは、ヒーリー以外の誰にも書くことができない、生身の研究者や精神科医や患者・家族が織りなす、感情病と双極性障害をめぐる、精神薬理学と精神医学をめぐる、さらには科学と企業と医療倫理をめぐる現在史なのである。

江口重幸

(えぐち・しげゆき)
東京武蔵野病院勤務、精神科医。精神科臨床、医療人類学、精神医学史に関心をもつ。訳書(共訳)に、アーサー・クラインマン『病いの語り』(誠信書房、1996)、『精神医学を再考する』(みすず書房、2011)、バイロン・グッド『医療・合理性・経験』(誠信書房、2001)、マーガレット・ロック『更年期』(みすず書房、2005)、デイヴィッド・ヒーリー『ヒーリー精神科治療薬ガイド』(監訳、同上、2009)ほかがある。著書に、『シャルコー』(勉誠出版、2007)、共著書に『文化精神医学序説』(金剛出版、2001)、『ナラティヴと医療』(同上、2006)ほか。