みすず書房

冨岡悦子『パウル・ツェランと石原吉郎』

2014.01.24

息の転回としての詩

「息の転回」――謎めいた、そしてなぜか心惹かれる言葉ではないだろうか。

パウル・ツェランは、みずからの詩論『子午線』のなかで、「詩――それは息の転回を意味するのかもしれません」と語った。ツェランの第五詩集のタイトルは『息の転回(Atemwende)』である。

たとえば夢のなかで、声を挙げようとしても声が出ない、ということがあるだろう。発語や発声をぎりぎりまで突きつめていくと、言葉も声もなくただ息だけが洩れる、という事態にまでいたる。発語や発声の、ようするに呼びかけの、原初もしくは窮極にある事態から、いま一度その息に、言葉と声を、そして意味を与えること――「息の転回」という言葉を、これまで私はそんなふうにイメージしてきた。もうちょっと理屈を言えば、生者と死者を分かつ境界にある息に言葉と意味をもたらし、ふたたび生者と死者を結びなおす――それが詩の務めである、と。

このたび本書『パウル・ツェランと石原吉郎』を編集し終えて、こうしたイメージはいささか情調的すぎたと思い知らされた。著者の冨岡悦子さんによると、ツェランの言う“息”の根底には、まず“神の息”がある。周知のとおり、旧約聖書で神は土を捏ねて人型を造り、その鼻に息を吹き込んだ。人間の始まりである。“神の息”とは聖霊のことであり、ギリシア語でプネウマ、ヘブライ語でルアハと言う。その語源は「風が吹く、息を吐く」である。

しかし人間の息は、プネウマにはなりえない。吸気と呼気の間に一瞬の休止が不可欠だからだ。「吸気も呼気も折り返すことなく一定期間どちらかを強いられると、人間は窒息する。すなわち、吸気と呼気の息のターン、すなわち“息の転回”とは、死をあらかじめ前提とする人間の運命のメトニミー(換喩)なのである」。 「息の転回」とは、呼吸のことだったのだ。この呼吸こそが、死すべき有限な存在としての人間の、そしてあなたの「覆しえない/証し」(『息の転回』より)なのである。

“呼吸”とは、石原吉郎の詩にとっても大切なモチーフである。石原の第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』の冒頭に置かれた「位置」の全行を引こう。

位置

しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である

“正午の弓”から矢が放たれる、切迫した危険な位置であえて、「君は呼吸し/かつ挨拶せよ」。この詩が描く状況は「キリストの磔刑」とも「銃殺の場面」とも解釈されてきた。いずれにせよ、この位置でする“呼吸”は、それが人の子イエスのものであれ死刑囚のものであれ、ぎりぎりまで切羽詰まった息であり、途絶する寸前の息である。だからこそこの呼吸は、死すべき人間がついにたどりついた証し、すなわち「息の転回」であるだろう。そんな「息の転回」でもって詩を書き応答せよ、「挨拶せよ」、――シベリアのラーゲリから戦後の日本へ帰ってきた石原吉郎が、詩人として再出発するための決意であった。