みすず書房

等身大の労働者群像が織りなす現代史。「訳者あとがき」より抜粋掲載

セリーナ・トッド『ザ・ピープル――イギリス労働者階級の盛衰』 近藤康裕訳

2016.08.29

「訳者あとがき」より

近藤康裕

リーマン・ショックに端を発する金融危機のころから、イギリスの大衆紙は「壊れたイギリス」との表現を使うようになったが、2010年に労働党から与党の座を奪い返した保守党のキャメロン首相は「壊れたイギリス」の立て直しを政権の中心課題に据えると宣言した。その間、本書の後記でトッドが剔抉しているように、格差の拡大のみならず、スコットランドの独立問題とEU離脱をめぐって連合王国というつながりの分断も進み、「壊れた」というのがもはや大袈裟な形容ではなくなってきた。
事態の深刻さが「エスタブリッシュメント」にとっても等閑視できないレベルに達していることは、キャメロンの後任となったメイ首相が就任演説でイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの「連合(ユニオン)」という「とてもとても貴重なつながり」に言及しつつ「すべての市民の結びつき(ユニオン)」の重要性へと話題を進めながら、「もしあなたがふつうの労働者階級の出身であるなら、国会議員が認識しているよりもはるかに生活は困難でしょう。あなたがたが四六時中働き、全力を尽くして生きておられることを、生活がときには苦しいものになりうることを、わたしは理解しています。(…)あなたがたがご自身の生活をもっとコントロールできるようにわたしたちは全力を尽くします」と、保守党の政治家の口から発せられるのが意外な文言を盛り込まざるをえなかったことからも明らかである。

『ザ・ピープル』でトッドが描き出しているのは、働くふつうの人びとが自分たちの暮らしと労働を自分たちの手でコントロールするためにつくる労働組合(トレイズユニオン)をはじめとした結びつき(ユニオン)の歴史である。近所や地域のつながりを通して、労働運動を通して、戦時下の扶けあいを通して、また労働党を媒介とした福祉国家体制の確立によって、人びとの「ユニオン」は格差の縮減に寄与してきたが、グローバル化と新自由主義化が進むにつれてこうした「ユニオン」は抵抗勢力の元凶であるとされ、個人主義化と格差拡大に拍車がかかった。
そうした文脈においてEUや連合王国という「連合(ユニオン)」の危機が皮肉に響くのは、連合内部の「体制側の者たち」――エリート層やビジネス界、あるいは連合王国で言えばイングランド――が人びとの「ユニオン」を軽んじ、エスタブリッシュメントとふつうの人びとやイングランド以外の地域との分断を進行させた結果、「連合」破綻の危機を招来してしまったからである。

イギリスのEU離脱にしてもスコットランドの連合王国からの独立にしても、それによって期待されているのは自分たちの問題は自分たちの手でコントロールできるようになることである。これをナショナリズムや民族主義という言葉で説明することはたやすいが、離脱や独立を求めることが必ずしも移民の排斥や民族的アイデンティティへの固執を意味するのではないことには注意すべきである。
むしろ、EUやイギリスという「連合」が人びとの分断を進める排他的(エクスクルーシブ)なものであるのに対し、スコットランドの独立を求める自治政府与党の政策に明確に示されているように、ふつうの人びとにコントロールする力を与える福祉国家的政策の遂行によって格差を縮めつつ、ヨーロッパという大きなつながりに与してゆこうとする包摂的(インクルーシブ)な姿勢がそこにあることは看過されるべきではない。

排他的なアイデンティティに拠らない「人びと」の結びつき(ユニオン)の基盤とは何か。イギリス人の6割前後の人びとが自分たちを労働者階級であるとみなしているとの調査結果に言及しながらトッドが繰り返し主張しているように、多くの人びとは働かなければ生きてゆけないから自分たちを労働者階級だと考えている。労働者階級についての歴史研究の先駆者E・P・トムスンは、「階級は利害関心の同一性(アイデンティティ)を(継承されたのであれ共有されたのであれ)人びとが共通の経験の結果として感知し、表明するときにあらわれる」と述べた。すなわち階級というのは、ある民族や人種、ある地域に住む人びとのことを特定するアイデンティティなのではなく、わたしたちの生の根幹をなす労働における「共通の経験」から生まれるものなのである。
福祉によるセイフティネットが削減され、グローバル化が認識のレベルをこえて進むなかで、日々の労働に従事しながらなんとか自分たちの生をコントロールしたいと願う思いこそ、自分たちを労働者階級だと考える人びとの「利害関心の同一性」であろう。格差の拡大によって人びとのあいだで分断が進み、EUやイギリスの分断の危機に直面しているわたしたちにとって、排他的なアイデンティティ中心主義の陥穽におちいることなく、人びとの結びつき(ユニオン)としての階級の意義と歴史を描き出した本書が示唆してくれるものは大きい。

copyright Kondo Yasuhiro 2016
(訳者のご同意を得て抜粋転載しています)