みすず書房

久しぶりのエッセー集。お待たせしました。

荒川洋治『過去をもつ人』[20日刊]

2016.07.12

TBSラジオ「日本全国8時です」で、森本毅郎と荒川洋治、ご両名の掛け合いがなくなってから、3年以上たつ。毎週火曜日の朝、生き生きした声で、言葉のこと、本のこと、文学のことが語られるのを聞くのが楽しみだった。

小社からは7年ぶりになるエッセー集『過去をもつ人』は、ラジオに出演されなくなった頃からの、読書をめぐる文章を選んで編まれたものである。『夜のある町で』『忘れられる過去』(講談社エッセイ賞)以来、『世に出ないことば』『黙読の山』『文学の門』と数えれば、18年の間にこれで6冊目となった。愛読者の方々には、お待たせしましたと申し上げたい。

荒川洋治のエッセーは、ドキッとする提言から始まることが多い。たとえば、ある一編。「夏目漱石、芥川龍之介、太宰治など、ほんの少数の文豪の名前しか知らないという人がふえた。文学についての話題が限られ、単調になったように思う。」

本当だろうか。谷崎は、川端は、と思いながら、たしかに最近は、そういう名前すら一般の会話にはあまり出てこなくなったと気がつく。小説家といえば、時々の流行以外は村上春樹しかいないかのような世間が、目の前にある。ところがこのエッセー、その現状を嘆くのではなく、意外な展開をみせるのである。「でもちょっと注意してみると、いろんなところに文学の世界がある。そこから多くのことを学ぶ。大河ドラマ『花燃ゆ』を見ている人は多いかもしれない。吉田松陰が入れられた野山獄。そこに富永有隣という男がいる。俳優は、本田博太郎。彼は、松陰に向かって、『生きて、腐って、呪え!』などと憎々しげに大声で叫ぶ。大変気性の激しい人だ。」

富永有隣のようすを描いたのが、国木田独歩の「富岡先生」(新潮文庫『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』に収録)である。「塾から巣立った青年が東京の大学に入り、遊びにきて、大学生になりましたなどというと、『それが何だ、エ?』。(…)学歴や地位だけで、何かのかたちに入ったというだけで、自分はえらいと思っている人がいる。えらそうな顔をして、それだけでやっていく、という人は、どの世界でも、実はいまもとても多いのである。(…)大きな顔をするな。そんなものはなんでもないんだと、はなから叱りとばしてくれる人がいまは少ないように思う。『富岡先生』を読むたびに、ぼくは、人間を学ぶ気持ちになる。」

激烈にして謙虚な文章の運びは、荒川洋治の特質である。独歩という明治の作家の短編から「いま」も学べることは多いと思わせてくれる。「『花燃ゆ』を見ていたら、『富岡先生』に会えたのだ。うれしかった」という、締めくくりも好ましい。

もう一編、デュマ・フィス『椿姫』についてのエッセーの冒頭。「恋愛を書いたものとして、これ以上哀切なもの、美しいものはない。」そのうえで、マルグリットの名セリフをいくつも抜き出して、こう結ばれる。「…ひとつずつ文章をたどると、感動が深い。人を好きになる。そのときも、ひとつひとつ見ていくことが大切なのだろう。」

寺山修司『戦後詩』の新たな文庫化に際しては、「寺山修司の批評には天才の鋭さと、すがすがしさがある。きらりとした愛情がある。」飯島耕一の追悼では、「読む人の目を汚さない。疲れさせない。目の前に光を入れる。読む人の心が明るくなる。そんな詩を書いた人だと思う。」全部で62編、どれを読んでも、深くうなずける。