みすず書房

哲学的肖像にして土方巽論の集大成

宇野邦一『土方巽――衰弱体の思想』

2017.02.15

1983年4月9日、山の上ホテルでの『病める舞姫』出版記念会。「宇野邦一も神戸から駆けつけて来ていたが、知り合いもないらしいので、しばし相手をする」と日記に記したのは、同書の装丁を手がけた詩人の吉岡実。副題が示すように「日記」と「引用」で織りなされた『土方巽頌』(筑摩書房、1987年刊)で宇野さんがはじめて登場するシーンである。

1984年夏、詩人は土方巽、芦川羊子と連れ立って京都に出かけている。嵐山の老舗旅館前で待っていた「宇野邦一と田鶴濱洋一郎」と合流後、保津川を船で上って「今宵の宿」へ。「これから、また徹夜の酒宴となるか。料理もうまく、思想、文学、芸術談義はいつ果てるともなく」
翌日、一同は旅の本来の目的地、京都国立近代美術館に向かう。日本初にして国内唯一のバルチュス展である。「かつて、図版で見た〈街〉や〈ギターのレッスン〉、〈夢〉に依って、魅了された画家の作品がここに在る。〈街〉はないが、それに匹敵する〈コメルス・サンタンドレ小路〉が眼の前にあり、〈ギターのレッスン〉はないが、力作〈部屋〉で、充分満足できる。(…)土方巽も感嘆の声を、しばしばあげている」(断章「バルチュスの絵を観にゆく、夏」)
1985年5月のアスベスト館開封記念公演でも詩人と宇野さんは遭遇しているが、同年秋、「秋の夜長」と題された断章にはこう記されている。「アスベスト館へ廻る。神戸の宇野邦一が上京したからだ。酒の入った土方巽は上機嫌で、若い田鶴濱洋一郎、中村文昭らに絶えず奇問難問をつきつけて、悦に入る。芦川羊子の運んでくる料理や酒で、秋の夜長の宴はいつ果てるともなく」

その後詩人が宇野さんに言及するのは断章「暗い新春」末尾にあたる1986年1月21日の日記。「宇野邦一が駆けつけて、土方巽と対面したが、幸運にも意識が戻ったとのことだ」。しかしその数行後に訪れる舞踏家の死。続く断章「棺の前で」は次の引用で閉じられる。
「〈私が知った土方巽は、いつも死と交わり、死に半分身体を溶かせながら生き、思考し、他者に対する人であった。これは、いつも死の意識に脅かされたり、あるいはうながされたりして激しく生きたというのとは少し違う。
ある日彼は言った。《生まれて来たことが即興じゃないの》。すると死もまた即興、ということになるだろうか。あるいは死だけは即興じゃないのだろうか、と私は棺のなかの人にたずねていた。そして去年の秋、彼が《残念ながら、人間は死なないんだ》と言ったのも思い出した。死を美化したり、感傷したり、死の脅かしを何かと取り引きしたり、つまり、死をめぐるいっさいの瞞着に、土方はけっして生きる時間を、一秒たりとも譲りわたしたくなかったのだと思う。〉宇野邦一」(「死と舞踏家」、「ユリイカ」1986年3月号)

ところで「いつ果てるとも」ないふたつの宴のあいだ(断章「現場・言葉」)には、こんな引用が挿入されていた。
「肉体をそのまま記号にするために、舞踏家がどんなにおびただしい言葉で自分を充填しているかを見てぼくは驚嘆した。舞踏家の肉体は、無数の微粒子のような言語からできているようだ。土方巽ほど骨の髄まで言葉でみたすことのできる人を見たことがない。肉体が形式によりかからないで不可視の現象を可視にしていこうとすれば、それほどにも、言語を内部と外部を連結する物質として増殖し、波動として酷使していかなければならないのだ」
これは「ある帰還ある出発」(「群像」1983年6月号、『風のアポカリプス』青土社、1985年、所収)の一節。おそらく宇野さんが土方巽との出会いを綴った最初の文章だろう。引用文のあとに続く箇所を拾ってみる。
「〈肉体の叛乱〉は、あまりにも時代の文脈にはまったキャッチフレーズだったのか。〈暗黒舞踏〉は、まだ暗さの意識と親しく生きることのできた時代から噴きあげた苦痛の表象、肉体の詩にすぎなかっただろうか。ほんとうは大時代的な言葉の下に、意味の空隙をつく言葉がびっしりとつまっていた。『病める舞姫』という本で土方巽はその言葉を光にさらした」
これらの印象、問いと直観とが『土方巽――衰弱体の思想』の淵源にあることはいうまでもない。30年もの歳月を経て「意味の空隙をつく言葉」、「めまいのなかのように高速で回転しているが、同時に信じられないほど粘り強い感覚体」の解読作業がこうして一冊の本となった。