みすず書房

『中井久夫集 5 執筆過程の生理学 1994-1996』最相葉月「解説 5」より

[第5回配本・全11巻]

2018.01.10

『中井久夫集』には全巻、最相葉月による「解説」がつきます。
中井久夫と河合隼雄に焦点をあてた『セラピスト』(新潮社)でも知られるすぐれたノンフィクションライターの手になる解説は、中井久夫の人と仕事の背景を時間軸にそって詳細かつスピーディに解き明かし見事です。

解説 5

最相葉月

筆者は過去に一度、中井久夫の原稿が誕生する瞬間に立ち会った。2012年11月、場所は神戸大学医学部附属病院の病室である。
中井は体調を崩して入院していたが、その日は気分が優れているということで、急遽、取材が許可された。調子が悪くなれば中止する約束で午前10時から始まったインタビューは、昼食をはさんで夕方まで続き、とうとう夕食が運ばれてくる頃となった。さすがにもう失礼したほうがよいだろうとレコーダーを止めて雑談になったとき、そういえば書かなければならない原稿があると中井がいった。アメリカの精神科医ハリー・スタック・サリヴァンについて書いた文章をまとめた本の「あとがき」だという(『サリヴァン、アメリカの精神科医』みすず書房、2012年)。年内刊行だから待ったなしである。編集者はさぞかし気を揉んでいるだろうと心配していると、突然、中井は、これから書くから記録してほしいといった。朝から8時間近くインタビューしていれば、ふつうは答える方も聞く方も疲労困憊しているものだ。しかも中井は入院中である。
いったんカバンにしまったレコーダーを再び取りだして録音ボタンを押すや、中井の口から言葉が流れ出た。録音ミスを恐れてノートにも筆記していたが、追いつくのに必死だった。その間、30-40分だったか。ほとんど言い淀むことなく、400字詰め原稿用紙18枚ほどの原稿が書き上がった。第5巻のタイトルにもなった巻頭随筆「執筆過程の生理学」に基づけば、「えいやっ」という掛け声で始まる「離陸・水平飛行・ドーピング期」に立ち会ったことになるのだろうか。口から出てきたときすでに、中井の脳内原稿は「初期高揚」から「立ち上がり」期まで進んでいたのだ。

一方、本巻に収録された「災害がほんとうに襲った時」、すなわち、1995年1月17日午前5時46分に起こった阪神・淡路大震災発生直後の記録の成立過程は、ずいぶん様子が違う。発災から約3週間後の2月9日、夜の回線がすいたところを見計らってみすず書房にファックス送稿されたが、途中で神戸大学のファックスが故障したため、その後3時間ほどかけて編集者に電話送稿された。「プレッシャー・マニア(加圧下躁状態)だからできたことであり、その力を借りなければ、そもそも何も書けなかったろう」(『災害がほんとうに襲った時』あとがき、みすず書房、2011年)とあるが、こちらはスタミナ切れ寸前、正真正銘の「初期高揚」が成せる業だった。

本巻には、阪神・淡路大震災における心のケア活動に関する文章が多数収録されているが、発災直後から復旧・復興期に入る1996年末にかけて書かれたこれらの原稿は、いわば、災害下における執筆過程の生理学を実証する生々しい記録といえる。内容に繰り返しが見られるのは、「半ばは事態の反映」であり、「半ばは私の頭が前進していなかったからであろう。ただ時の経過とともに、動いていないようにみえる船がいつの間にか位置を変えているように、問題の重点が移動し、新しい発想が徐々に以前のものに置き換わってゆくことしかないだろう」(『昨日のごとく』あとがき、みすず書房、1996年)。中井はそう回想している。〔…〕

(copyright Saisho Hazuki 2018)

『中井久夫集 5 執筆過程の生理学』(みすず書房)カバー