みすず書房

柴田裕之「訳者あとがき」 ウェブ転載

アラン・デケイロス『サルは大西洋を渡った――奇跡的な航海が生んだ進化史』柴田裕之・林美佐子訳

2017.11.09

動植物があちらの陸塊からこちらの陸塊へと奇跡の航海を遂げた、躍動感とサプライズに満ちた自然史。
訳者の柴田裕之さんによるあとがきをお読みになれます(Webページで読みやすいよう、一部改訂をくわえています)。

「訳者あとがき」

日常生活では、ついつい目先のことばかりに囚われがちだからだろうか、時間的にであれ、空間的にであれ、逆にスケールの大きいものには、その大きさ自体の持つ魅力に惹かれる。そして、そんな魅力を備えたものの一つが、本書のテーマの歴史生物地理学だ。時の経過に伴う生物分布の変化に取り組むこの分野は、時間的にも空間的にもスケールが大きい。なにしろ、生命の歴史をたどれば何百万年、何千万年、何億年という時間をさかのぼることになるし、生命活動の舞台となる地球は一周四万キロメートルに達するのだから、否応なく視野が広がり、壮大な眺めに思わず息を呑む。

私たちの世界は、なぜ今のような姿をしているのかという疑問には、多くの人が昔から魅了されてきた。そして、この謎を解き明かす過程は、数々の発見や閃きを経て進んできた。進化の概念や大陸移動説、海洋底拡大説、地球の磁場の逆転とそれが生み出す海底の縞模様、プレートテクトニクス理論から、年代推定法やDNAの複製法まで、さまざまな答えや手がかり、手法は、従来の考え方の枠組みや技術の範囲を超えてよくぞ見つけたり思いついたりしたと感心するし、そうしたものが得られたり、その成果を目にしたりした瞬間の当事者の気持ちの高ぶりを想像しただけで、こちらまで胸がわくわくしてくる。
そして、本書の主眼である生物のはるかな旅──モウセンゴケやトウモロコシから、ヘビやトカゲ、なんとサルまで、翼も持たず、泳ぐことも苦手な、あるいはできない多くの生き物が、果てしない大海原を太古からたびたび渡ってきたこと──を思うと、何か言いようもない感動を覚える。

もっとも、振り返ってみれば、ダーウィンとウォレスの進化論が世に出てからまだ一六〇年ほど、プレートテクトニクス理論に至っては、広く受け入れられたのはたかだか半世紀前のことにすぎない。深遠な時間と比べれば一瞬とも言える。また、生物分布研究のカギを握る動植物の化石や花粉、さらにはDNAの塩基の小ささと言ったら、地球上の地理的分布や、地殻変動の地球物理学の規模とはこれまた比べ物にならない。極大のスケールと極小なスケールの、なんと奇妙な取り合わせだろう。そして、長い歴史の中で、これほど小さなものにまで頼って、生物の分布がここまで解明された時代に自分が居合わせるとは、なんと不思議なことだろう。

不思議と言えば、本書を読むとわかるとおり、科学や科学者がそれほど科学的でも論理的・客観的でもないというのも、一見すると不思議な話だが、いかにもありそうなこと、人間らしいことという気もする。そもそも生き物の分布に関する科学的な思考は、ノアの方舟の話にまつわる疑問に端を発すると見る向きもある。すなわち、大洪水のあと、アララト山にたどり着いたことになっている動物たちは、どうやって再び世界中に住みついたのかという疑問だ。
また、事実ばかりではなく人脈や時代の風潮、人々の思い込みを軸に学派が優劣を争うというのも、よくあることのようだ。分断分布説と海上分散説という二つの説がぶつかり合った歴史生物地理学でも同様だったようで、この分野は「証拠を第一に考えるよりも、理論に合わせて事実を捻じ曲げようとする試みに頻繁につきまとわれ」てきたという言葉も紹介されている。

じつは本書の著者も、最初は分断分布説を鵜呑みにしていたが、ヘビに関する研究を通して、長距離海上分散説に目を開かれた。そして本書では、自分やほかの研究者たちのさまざまな研究成果を挙げながら、分断分布説のいわば原理主義者たちの独善的な主張を辛抱強く突き崩していく。
蔑視されていた少数派が研究を重ね、証拠を積み上げることで、徐々に勢いをつけ、味方を増やし、形勢を逆転させ、パラダイムの確立に近づいていくというその過程は、小気味よく読める。真理の追究は、先入観や通説に束縛されずに、権威や多数決ではなく証拠に基づいて進められるべきであるという正論の、絵に描いたような実践例だ。

もちろん、著者は海上分散説の立場から語っているから、分断分布説の擁護者、あるいは第三者なら別の物語を展開するかもしれないが、それは別の本に譲るとしよう。それに、著者もはっきり認めているとおり、両学説は二者択一ではなく、一方が当てはまる生物や事例もあれば、もう一方がふさわしい場合もある。
また、歴史生物地理学にまつわる個々の疑問は、数学の証明問題のように、揺るぎないかたちですっぱりと立証することもできない。タイムマシンなどないのだから、何千万年も前にこれこれの事象がこういう順序で確実に起こった、あるいはこれこれの事象は断じて起こらなかったなどと、万事につけて正確に言い切ることは望むべくもない。反証不能のものは非科学的であるという厳密な反証主義が絶対でない、こういう科学もありうることを本書は納得させてくれる。現実の結果を受け入れ、数々の状況証拠から全体的なパターンをつかみ、方向性を見定めるというアプローチが、けっして無意味ではないことを教えてくれる。

著者のアラン・デケイロスはサイエンスライターで進化生物学者だ。コーネル大学で博士号を取得し、コロラド大学で生物学を教え、現在はネヴァダ大学で非常勤で教えながら研究や執筆活動を続けている。動植物の海上分散から行動の進化、サナダムシの起源まで、さまざまなテーマで書いたポピュラーサイエンスの記事は『ウォールストリート・ジャーナル』紙や『ハフィントンポスト』紙、『サイエンティスト』誌などに掲載され、広く引用されてきた。現在は妻と二人の子供とネヴァダ州リノに暮らしている。

ところで、原書の内容の確認のために著者と電子メールでやりとりしているあいだに、私たちは思いがけない「歴史生物地理学研究」をすることになった。本文中で著者は自分を「アジア系の男性」と呼んでいるし、娘はハナ、息子はエイジなのに、姓がアジア系には見えないので尋ねてみると、母方の祖父母が(本書の用語を転用すれば、「長距離海上分散」した)日本からの移民、父方の祖母も日系二世、祖父がメキシコからの移民(隣国からの「自然分散」)であり、この祖父が変わり者で何度か姓を変え、その一つがポルトガルのデケイロスだったそうだ。
著者の父親の一家は第二次世界大戦中、日系人の強制収容施設に入れられた(人為的な「導入」)が、それは、アメリカに移民(これまた、「長距離海上分散」)した私の大伯母一家が入れられた(これも人為的な「導入」)施設でもあった。
「分散」と「導入」の共通経験を持つ二つの家族の子孫が、歴史生物地理学の書の著者と訳者として出会うとは。やはり本書の言葉を借りれば、「ありそうもないこと、稀有なこと、不可思議なこと、奇跡的なこと」も起こるものだ。

copyright Shibata Yasushi 2017
(筆者のご同意を得て転載しています)