2019.06.28
小栗上野介はいかにして象徴的敗者となりしか
マイケル・ワート『明治維新の敗者たち――小栗上野介をめぐる記憶と歴史』野口良平訳
『マクヒュー/スラヴニー 現代精神医学』 澤明監訳
2019.06.25
精神障害の分類、それは現代精神医学のスタートであり、ゴールである。
「日本語版への序文」の全文を以下でお読みになれます。
すべての科学は、事柄をその成因に立ち戻り因果の論理に基づいて考え分類していく。これは「現代精神医学」のゴールでもある。われわれは4つの「観点」(説明原理、という言い方をすることもできる)から精神障害を考察・分類していくことが、患者診療や研究にとって大事と考えている。患者さんが、何を「もち」(疾患の観点)、何で「あり」(特質の観点)、何を「行い」(行動の観点)、何に「直面している」か(生活史の観点)、という4つの観点である。
物事を分類するというのは科学の発展には必須である。よい分類とは、成因に立ち戻って特徴を探り、最終的に結果としての表出へのプロセスがうまく説明できるようなものである。いかに詳細丁寧に個々の要素が記述されていても、成因と最終表出へのプロセスをとらえていなければ、それらはカタログか用語集に過ぎず、科学としての分類とは言えない。
ただの用語集も、自然愛好家のガイドブックというような意味合いなら有意義だろう。たとえば、多数の鳥の見かけ上の特徴とそれらの名前を紹介する「北米の鳥のフィールドガイド」は、アマチュアのバードウオッチャーや自然保護者には有効だろう。しかしそうしたカタログは、進化の中でどのようにしてそれぞれの鳥の特徴が生まれ、大自然の中でいかに環境に合うようにそれぞれの鳥たちが適応していったかを説明したいとき、すなわち科学としての鳥類学にとっては役立たないものだ。
すなわち、用語集にしろフィールドガイドにしろ「静的な」情報をもたらすだけで、説明や発見のための情報、よりよき理解を発展させていくための原動力にはならない。これに対して、われわれはもっと「動的な」分類の努力によって科学が発展してきたよき例を見出すことができる。メンデレーエフの元素周期律表は論理一貫性をもって化学を発展させた。またメンデルが優性、劣性形質を生物学的に明らかにしたことは、遺伝学を遺伝子という実体をもった上での学問として確立させた。これらの身近な例を超えて、「静的な」用語集のレベルから「動的な」分類に進化していく中で大きく発展したという意味では、天文学がもっともよい例になるだろう。
大昔人々が星占いの神秘に魅せられて空にある小さな明るい実体を肉眼の研究対象としたとき、彼らはそれらの実体の位置、相対関係を基準にしてオリオン座とか北極星とかと名前をつけたことだろう。しかし次第に、星々は日周運動をしていて、あるものはそれらの中での相対位置が一定だが、あるものは常に変わっていくことを人々は認識していった。この観察・認識は、単に名前をつけるという段階から、まだまだ雑ではあるが背後にある自然の法則を念頭に置いた上での分類(すなわち、恒星と惑星というように)に向かっていっていることを示す。このような知的努力は、占星術から天文学的思考への発展であり、地球中心説すなわち天動説からコペルニクスの地動説への道を開いたのである。コペルニクスは、星の動きが単に地図として記載されていたレベルから、それらの複雑な動きを彼の数式にて「説明」するに至ったのである。その努力は、次にケプラー、ガリレオ、ニュートンを導き出すのである。現代の天文学者は、銀河、太陽系、太陽、惑星、月などを同じ概念構造で理解できる天体の対象とし、物理学・化学の知的体系を天体を説明する科学的概念に生かして(たとえば重力とか慣性とか)、天体の対象のあり方、それらの生死までも理解可能なものにしている。ビックバン理論も、そうした科学的思考の延長線上にある。
「ヒューリスティック」は、必ずしも最終的な精度をもたず最終的な正答であるとは言いきれなくてもそれに近い解を敏速に得る方法として一般には定義されるが、上記で述べたような、答えるべき問題に対して「動的な」分類をし学問を進歩させていく努力を表現する言葉としても適切である。
もし精神医学を成熟したものに発展させたいなら、天文学の発展の歴史として上記に述べたような本質的な問いかけを、医学の一分野としての精神医学に対して行わないといけない。成因、本質を考えることで精神障害、病気がいかに分類されていくのかを真剣に問わないといけない。現在のDSMは、病気に対して単にそれぞれの名前を与えるだけの「静的な」リストだからこの目的には十分ではない。多くの身体的疾患の基本的分類はこれとは異なる。こうした分類を行うICDでは、コペルニクスが天文学でなしたように、成因から表出に至るプロセスを含む本質をとらえて病気を説明し分類することを目指している。ICDではpathogenesis(病因)、pathophysiology(病態生理)という説明原理のもと、病気の成因、病態機構を考える。身体のどの臓器で、どのような生理プロセスが障害されるのかを考える。こうした病気の概念の枠組み、説明の仕方、分類は、上記で述べたような「動的」なもので「ヒューリスティック」な特徴をもっている。したがってその土俵の上で、研究者はそれらをさらに検証し、肯定したり否定したりすることができる。病因、病態生理という説明原理を統合し、いかに疾患が生じ、いかなるプロセスで病態表出に至り、いかにそれが増悪したり寛解したり、最終的には予防したり治療したりするかを研究、議論していくのだ。そして、理想の姿は、こうした体系的な説明・分類がすべての医学分野に適用され、それらが研究によって確かに検証されていくことで、それが医学の究極目標である治療と予防法の確立を導くことだ。
研究は、こうした医学分類の努力で見出された概念を検証し、確かに正しいという太鼓判を押すこともあるだろうし、時にはいくつかの提唱されていた概念を否定する。それゆえ「ヒューリスティック」な特徴をもつと述べた。前者の例は、ウィリアム・ガワーズら臨床神経学者が提唱していた精神科症状をともなうてんかんであるが、ハンス・ベルガーの開発した脳波検査により検証され、側頭葉てんかんという概念に結晶化した。後者の例としては、胃潰瘍が単なる炎症性疾患と提唱されていたが実はむしろ感染症であることが証明された事実が挙げられよう。しかしながら大事なことは、たとえ最初の提唱概念が正しかったにせよ間違っていたにせよ、このような研究が行われえた大前提は、病気を説明しようとする「動的な」臨床的分類努力であるということだ。
要約するに、単にそれぞれの臨床表出に名前を与えるだけの「静的」なやり方でなく、何とかそれぞれの病態をその成因から因果的に説明、分類をしようとする努力をすれば、それは議論を生むことにもなるだろうが、科学技術などの発展に伴い、新しい発見と改善が期待できるだろう。こうした発展が期待できる「動的」な分類をする努力が大事だと、われわれは提唱している。
1980年にDSM-IIIが発表された時点では、ここに精神障害、病気の成因に始まる本質的な性質を含んで分類をしないようにする理由があった。その当時は、精神力動学的、行動学的、生物学的な立場に加えて、自由主義まで加わって、精神科医の立場は極度に分裂し混乱をきたしていたため、フィールドガイドのような検索図鑑の様式でどの精神科医が見ても合意できるような表層的な臨床的表出だけで整理した方が実利的であろうとの判断だったのだ。それぞれの病名に対して、包含基準と除外基準を明記することで、それらをもって将来的には成因や病態機構の解明につながればという期待もあったようだ。しかし、このDSM-IIIの出版から35年以上が経つにもかかわらず、DSMを編集、改訂する人々は、この臨床的表出だけで整理するという古典的なDSMのやり方を変えるだけの科学的発見はないとして、病気の成因や本質的プロセスを分類に含むことを拒否してきた。いまだにDSMは実用第一で「静的」な用語集であり、最近のDSM‐5に至るまでごくわずかな言葉の定義や基準において修正をしたのみなのだ。
DSM-IIIによって精神医学に実用性という観点が導入されたことで、診断に関する論争にめどが立ち、大規模な疫学研究が可能になり、多施設間での臨床研究への可能性が広がるという利点はあった。しかし、真に科学的な精神医学の骨格を作り出すには、このフィールドガイドは不十分なのである。にもかかわらず、いまだDSMを改定していく専門家の興味は、1980年以来の診断基準に微調整を加えたり、新しいカテゴリーに名前を与え、その「静的」なリストを維持していくことだけで、「動的」な観点を導入することにはない。
現在の精神科医は、このDSM-IIIのやり方から恩恵も得つつも、その犠牲者であるとも言える。精神科医同士で診断基準にある意味では合意をもちあって物事が進められるが、実用重視の1980年の視点から一歩でも進化したかたちで精神障害、病気を説明できているわけではない。その結果として現代精神医学は、他の医学分野と同じレベルの知的体系として存在しているとは言えないし、また科学に立脚した学問とも言えない。今こそ精神医学をもっと「動的」な分類に向かわせようではないか。DSMという用語集から得られるよい部分は失わせないで、しかしもっと病気の成因、そしてそこから何が病的に引きおこされ広がっていってしまうのかをしっかり把握してこそ成り立つような分類をもとうではないか、というのがわれわれが述べたいところなのだ。
4つの観点(疾患、特質、行動、生活史)は、精神障害がもつそれぞれの本質的特徴を取り出す分類の第一歩だと考えられる。これらは「ヒューリスティック」に活用されるべきで、ここからより適切な研究を引き出していけばいい。この本を読んでいただければ、いかにそれら4つの観点それぞれにおいて、成因から実際の病的表出に至るプロセスを明らかにしていくか、実例をもって理解していただけるものと信じる。
われわれの考え方をよりよく理解していただく上で、以下の文献をご参照いただければ幸いである。
(著作権者の許諾を得て抜粋転載しています。なお、
転載にあたり読みやすいよう行のあきを加えました)
2019.06.28
マイケル・ワート『明治維新の敗者たち――小栗上野介をめぐる記憶と歴史』野口良平訳
2019.06.19
スーザン・サザード『ナガサキ――核戦争後の人生』宇治川康江訳[7月1日刊]