みすず書房

小栗上野介はいかにして象徴的敗者となりしか

マイケル・ワート『明治維新の敗者たち――小栗上野介をめぐる記憶と歴史』野口良平訳

2019.06.28

小栗上野介忠順は、歴史の教科書にはあまり登場しないし、坂本龍馬や勝海舟のように有名ではないが、熱心なファンを抱えている。その人生を描いた小説や伝記も多い。ひとつには、日本の近代化に貢献しながら、疑わしい罪状によって新政府軍に斬首された幕臣という、悲劇のヒーローの要素をもっているからだろう。もうひとつには、戊辰戦争で敗れた側の人びとが、勝者が書く歴史に抗う過程で象徴的な位置を占めてきたということがある。本書が描くのは、この後者のほう、小栗はいかにして象徴的敗者となりしかである。

これがアメリカ人研究者によって書かれることになったきっかけは、全くの偶然だった。高校生のころから習っていた空手に導かれて日本に関心を抱くようになったマイケル・ワートさんは、ある制度を通して英語教師として日本に滞在することになった。行く先は指定できず、ただ「田舎を希望」と申請して派遣されたのが群馬県の倉渕村だった。こうして、小栗終焉の地であり小栗ファンを引き寄せる磁場のど真ん中で、彼は2年を過ごすことになったのである。

先日、折よく来日されたワートさんと、訳者の野口さんと担当編集者で刊行に祝杯をあげた。本書執筆までのことを流暢な日本語で話してくださったが、ひとつのポイントとして、幕末から明治への変革期における暴力のとらえかたがあるようだった。フランス革命やアメリカの南北戦争などと比べて死者が少なかったことや江戸の無血開城を挙げて、日本では封建制から近代への移行がスムーズに行われたという評価への違和感である。「スムーズな移行」と言ってしまうことで、当時紛れもなくあった暴力や近代化の始動とともにこの国が抱えた問題は目立たなくなり、明治新政府の正当性と「稀な近代化を遂げた国」という自画像が強調される。ワートさんも野口さんもファンではなく研究対象として小栗を見ているが、小栗ファンが抵抗しているのもやはり、このスムーズ移行説的な歴史観である。ファンの小栗贔屓はもちろん中立的ではなく偏りもあるかもしれない。しかし本書で「メモリーアクティヴィズム」と呼んでいる顕彰運動がなければ、人知れず埋もれた幕末維新期の記憶(メモリー)は多かった。官製の歴史への異議申し立てが行われるのが、まさにそうした記憶という場である。

記憶とは曖昧でとらえがたいが、「過去を認識しようとするあらゆる営み、そしてこの営みの結果得られた過去の認識のあり方」(小関隆)として、近年の歴史学で重視されている。他にもオーラルヒストリー、感情史、ジェンダー論など、従来の史料重視の歴史記述で抜け落ちていた視点からのアプローチがある。

小栗上野介自身は、多くを書き残さなかった。日記はあるものの、おもに面会相手や金銭の出納を淡々と記録したもので、彼自身の考えや感情を知る手がかりはあまりにも少ない。一方で訳者あとがきでは、「小栗は何に負けたのか」という興味深い疑問が提出されている。さらには、小栗本人は自分が何に敗れたのかを分かっていたのではないかともいう。幕末の内戦は、開国派が攘夷派を破って近代国家を建設した、という単純なものではない。開国の必要を合理的に理解し、徳川による近代国家建設を構想した小栗が何に負けたのかという問いは、幕末維新は何であったのかという問いそのものであるかもしれない。