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2018.08.21トピックス

『映画『夜と霧』とホロコースト』 巻末「編集部付記」をウェブ転載

E・ファン・デル・クナープ編『映画『夜と霧』とホロコースト――世界各国の受容物語』庭田よう子訳

一本の映画が戦後世界にもたらした影響と波紋を各国別に追う、ファン・デル・クナープ編『映画『夜と霧』とホロコースト』。
巻末に収めた「編集部付記」を以下に転載いたします。日本での受容物語の一端、そして、フランクル『夜と霧』霜山徳爾訳(みすず書房)の出版と映画『夜と霧』受容との関わりについて、どうぞご一読下さい。

編集部付記  日本における映画『夜と霧』の受容について

「夜と霧」と題して今度フランスで製作された記録映画は、昨年わが国で公開されたポーランド映画「アウシュヴィッツの女囚」と並んで、この死のキャンプの実相を伝える貴重な報告である。後者がセミドキュメンタリー形式をとった劇映画であるのに対して、「夜と霧」の方は純然たる記録映画で、映写時間も三十分という短いものである。……ポーランド映画には、トラックに満載された死の最終コースへ向う女囚の群から期せずしてマルセイエーズの斉唱がおこるシーンのような高潮があるが、「夜と霧」にはそうした劇的なヤマは一つもなく、解説にも画面にも煽情的あるいは叫喚的な要素は極度に抑制され、すべてがむしろ淡々とした調子で進行する。だから、この映画を観終って感ずる重苦しい圧迫感は直接的感覚的な印象から来るよりも、全体としてそれが何かしら底の知れない問題のなかに否応なくわれわれの思考をひきずり込むところに発しているように思う。聞くところによるとこの映画は税関の検閲にかかって公開を許されそうもないとのことだが、もし本当ならまことに残念だ。怪しげなエロ映画の類ならばともかく、こういう製作過程も意図も筋のとおった本格的な記録映画を果して税関の役人の判断だけで送り還していいものだろうか。この記録映画はサディズムを煽動するどころか、サディズムの組織的解放が行きつくギリギリの結末を示して、いかなるサディストをも戦慄させずにはおかない。
(安達二郎「記録映画『夜と霧』について」、『中央公論』1956年7月号)

1956年、数々のフランス映画を配給していた新外映配給株式会社は、アラン・レネの『夜と霧』を輸入しようと動いたが、東京税関で差し止められた。「あまりにも残酷で風俗公安を害す」との理由からであった。
先の文章からもわかるように、ごく一部の関係者は試写を見たようだが、東京税関の措置を知った人びとは抗議の声を上げ、ニュースにもなったようだ。

神のない映画『夜と霧』:非公開となるか 大虐殺の記録
(『週刊新潮』1956年6月12日号)

「夜と霧」は東京税関が「残酷すぎる」と認定したため一般公開が危ぶまれていたが、十九日税関の諮問機関である輸入映画審議会で審議の結果、輸入、一般公開は不適当と答申した。……これで同映画の一般公開は不可能となったが、輸入会社の新外映では文化人、団体などから同映画を見たいという要望が強いので、非公開試写などの特殊な形で認めてもらうよう努力するといっている
(『毎日新聞』1956年6月21日朝刊)

『夜と霧』の当時の映画批評には、先に挙げた安達二郎(これはペンネームで、政治学者の丸山眞男が書いたものである)のほかに映画評論家の飯島正が『映画評論』1956年7月号に掲載した「『夜と霧』とアラン・レネエ」があるが、映画をじっさいに観てアラン・レネの真意を読み取ったごく少数の人をのぞけば、検閲や表現の自由問題、第二次世界大戦下に起こった隠された真実を知りたいという思いがない交ぜになった現象だったのではないだろうか。

結局、『夜と霧』の日本での初公開は1961年。死体の山をブルドーザーで処理する場面など6ヵ所、計57秒がカットされて一般公開された。『キネマ旬報』1961年11月下旬号には、新外映配給の関係者による、先の東京税関でのやりとりの思い出も掲載されている。
ノーカット版が公開されたのは1972年。1998年以後、DVDも発売されている。
また、1970年には、ジャン・ケロールのナレーションの大島辰雄による全訳が「アラン・レネ『夜と霧』」という表題で『全集・現代世界文学の発見 5 抵抗から解放へ』の一編として収録、学芸書林から刊行された。

本書の第六章で、1956年当時のオランダでは、映画『夜と霧』の上映会と書籍『第三帝国とユダヤ人』(ポリアコフ/ヴルフ編)のオランダ語版の出版が絶妙のタイミングで重なり、当時の人々にとって、この二つはほとんど区別がつかなかったようだ、と書かれているが(205-6頁)、日本の場合もサイドストーリーがあるので、付け加えておく。

日本で映画『夜と霧』の輸入禁止事件が取り沙汰されていたとき、みすず書房では霜山徳爾訳によるオーストリアの精神科医・心理学者、ヴィクトール・フランクルの本の刊行を進めていた。原題は「心理学者、強制収容所を体験する」というほどの意味だが、同書は1956年8月15日、『夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録』というタイトルで刊行され、発売後2ヵ月で12刷となった。
発売翌日の1956年8月16日朝刊の『朝日新聞』に載った出版広告には、「映画『夜と霧』」の項目があり、

一 アラン・レスネー監督による記録映画(仏)は、映画評論家サドゥールによって「偉大なクラシック」と激賞されたが今年のカンヌ映画祭で、西独の抗議で、上映拒否となった。
二 本映画は日本の税関を通過できず、本国に送還された、事実上の検閲として憲法上の問題を呼びおこしている。

と記されている。
また同紙1956年9月16日朝刊の出版広告には、こうある。

映画「夜と霧」は輸入禁止となったが今や本書のみが「キリストも知らなかった地獄」を白日の下に示している

フランクルの本の日本語版タイトル決定が、映画『夜と霧』の輸入禁止問題に関わっているのは、明らかだろう。その結果、逆転現象というか、日本では、フランクル『夜と霧』が原作で、その映画化がアラン・レネ『夜と霧』だという勘違いもあったと聞く。

1960年には大島渚監督の映画『日本の夜と霧』が公開され、同年の芥川賞受賞作は北杜夫の『夜と霧の隅で』だった。アラン・レネの『夜と霧』の日本公開は1961年だから、この時点ですでに、日本においては、ヒトラーによる「夜と霧」命令と、アラン・レネの映画『夜と霧』と、フランクル『夜と霧』が微妙に重なりながら、「夜と霧」という語感イメージも手伝って、シンボリックに一人歩きを始めたのだろう。

今から考えると、ナチスによる強制収容所をテーマにしていたとはいえ、アラン・レネの『夜と霧』もフランクルの『夜と霧』もともに、ナチスの暴虐を暴いて告発するものでも、最大の被害者であるユダヤ人に依拠して表現されたものでもなかった。本書の言い方を借りるなら、いずれも「普遍主義的」な観点によって提示されている。そのぶん、誤解を招いたり批判にさらされてもいる。

日本では、ドイツとは違い、青少年を中心とした歴史教育の素材として映画『夜と霧』が使用されることはあまりなかったようである。どちらかというと、アメリカの事例に似て、映画監督アラン・レネの芸術性を中心に熱心なファンに享受されているのだろう。
いずれにせよ、本書が考察しているように、表現する側の意図を超えて、それぞれの国家や社会、時代、集団、個人により、その受け止め方は区々である。それに耐えていくことができるのが、古典というものだろうか。

参考文献
河原理子『フランクル『夜と霧』への旅』朝日文庫、2017年
『丸山眞男集 第6巻 1953-1957』岩波書店、1995年

copyright Misuzu Shobo 2018
(ウェブ転載にあたり行のあきを追加した箇所があります)




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