みすず書房

傑作ノンフィクション、『中国はここにある』 訳者あとがきウェブ転載

梁鴻『中国はここにある――貧しき人々のむれ』鈴木将久・河村昌子・杉村安幾子訳

2018.09.25

都市の繁栄と農村の荒廃。近代化の矛盾に苦しむ農村に、現代中国の姿を浮かび上がらせ、大きな感情のうねりを呼んだノンフィクション。人民文学賞ほか受賞。
巻末の「訳者あとがき」のほぼ全文を、以下でお読みになれます。

訳者あとがき

本書は梁鴻氏の著作『中国在梁庄』の日本語訳である。これは中国文学の研究者でもある梁鴻氏が、自分の故郷に帰り、故郷の農村の現状を描き出した文学作品で、発表されるや中国で大きな話題となり、2010年の人民文学賞などを受賞した。

この作品が話題になった最大の理由は、中国農村の痛ましい現状が、読者の心を揺さぶる筆致によって表現されたことにあるだろう。ただし、中国農村の貧困を記録したもの、あるいは告発したものとは言えない。そのことを確認するため、ここではまず、本書の舞台である梁庄から説明しよう。ちなみに本書は、基本的には梁鴻氏の故郷の現実を描いたものであるが、地名や人名は少しだけ変わっている。梁庄も現実の地名ではない。

梁庄は河南省のある村である。河南省は中国の内陸部に位置し、有名な都市としては古都洛陽などがある。古くは文明の中心地の一つであり、地理的にも、地図を見れば、中国全体の中心に位置している。しかし現在では、内陸部でよく見られるように、経済的には後進地域であり、全国各地に出稼ぎ労働者を送り出す省として知られている。河南省出身の出稼ぎ労働者は、じつはあまり評判が良くない。近代文明を理解せず、喧嘩っ早い粗野な人間とされている。河南出身者の立場からすれば、古の文明の習慣を残しているとなるのだが、河南以外の目からは、前近代の遺物のごとく見なされている。

省の下の行政区分が市と県である。市と県は同じ区分に属するが、一般的には、市の方が大きな行政単位である。県城(本書では県政府所在地と訳した)は、県の中心となる町である。日本語の「県」の語感と異なり、中国の「県」は地方の町でしかない。とはいえ、地方においてはちょっとした都市であることも事実である。本書にも、梁鴻氏が初めて県政府所在地に行ったとき、にぎわいにとまどったことが書かれている。梁庄が属しているのは穣県という県である。穣県というのは古称で、おそらく現在の鄧州市のことだと思われる。鄧州市は河南省西南部、湖北省に近いところにある町で、河南省の中でも中心から離れた地域にある。80年代に市となったが、本書では県と記されている。

県の下に郷と鎮がある。郷や鎮は、都市と呼べるほどの規模はないが、周辺の農村の物流の中心地であることが多い。たいてい商店や学校などの行政機関が集まっていて、周辺の農村から人がやってくる。梁庄にいちばん近いのは呉鎮という町であった。さらにその下が村となる。村にも商店や学校がないわけではないが、その機能は限定的で、村の主たる産業は農業である。近年は小さな工場が置かれることもあるが、いずれにせよ生産の場である。

村の一般的な生活は、もし暮らすだけならば、ほとんど村の中だけでやっていける。ときおり郷や鎮まで買い物に出かけるだけで、朝から晩まで村を出ないことも可能である。県政府所在地まで行くのは、就学や就職などの事情を除けば、よほどの場合だけである。すなわち村と鎮だけでほとんど自足的な生活圏を形成している。別の言い方をすれば、ほとんど徒歩か、せいぜい自転車によって生活が完結する。そのことが村の生活スタイルを形作った。その中にいるかぎり安定した生活が送れるが、閉鎖的で文明社会から隔絶されているとも言える。そのような村のひとつとして梁庄がある。ちなみに本書では、鎮と村によって完結しうる生活のありようと両者の関係を表現するため、鎮に「町」という訳語を当てた。

梁庄は特別な村ではない。むしろ現在では経済的には後進地域である河南省の、ありきたりの村にすぎない。しかし梁鴻氏が自分の故郷の村である梁庄を描いたのは、そこが中国の貧困地域であるからではないと思われる。言い換えるならば、梁庄を描くことは、後れた中国の農村を悲しんでみせる行為ではない。河南省が地図上の中国の中心であることに象徴的に示されているように、梁庄は、現在の中国の問題の核心を集約的な形で表す場であると、少なくとも梁鴻氏は考えている。そして本書が話題を呼んだことから見て取れるように、中国の多くの読者にとっても、梁庄は他人事として憐れむべき対象ではなく、むしろ自分と無関係ではない中国が抱える問題の核心を示す場であった。

なぜありきたりの農村が中国の核心たりうるのか。梁鴻氏が繰り返し使ったのは、「郷土中国」という概念であった。この概念は、現在では一般名詞のように使われているが、もとは社会学者である費孝通の著作の題名であった。『郷土中国』の初版は1947年で、イギリスで人類学を学んだ費孝通が、欧米社会と中国社会を比較しながら、中国社会の基本的な構造を描き出そうとしたものであった。『郷土中国』の冒頭に次のような一文がある。「末端のレベルから見れば、中国社会は郷土的である。」ここで費孝通が述べる「郷土」とは、基本的には農村社会のことだと考えられる。「末端のレベル」を強調することについて、費孝通は、西洋文明と接触して生まれた近代社会が上層にあるからだと説明した。しかし彼はすぐに、そのような近代社会は末端の郷土から生み出されたと述べた。つまり費孝通の見るところ、中国は西洋文明との接触によって変容しつつあるが、その根幹は農村の郷土社会にあるという。そこで中国社会の基本的な構造を見るためには、根幹の郷土社会こそを見るべきということになる。

費孝通の著作は半世紀以上前のものであり、しかも社会学者の立場からの研究である。それを梁鴻氏がそのまま受け継いだと考えることはもちろんできない。中華人民共和国建国前夜である1947年と異なり、現在はグローバル化の波が農村まで押し寄せている。また社会学者の費孝通が中国社会を理解するための構造を見出そうとしたのに対して、梁鴻氏はむしろ中国社会が変化しつつあることを重視して、変容のダイナミズムを描こうとしている。そのような違いはあるが、しかし梁鴻氏が「郷土中国」の概念を踏まえていることも明らかである。本書を読めばわかるように、梁鴻氏は「郷土中国」という概念によって、中国社会に内在する文化、感情、生活スタイル、心理など、社会の根底にある要素を表現しようとしている。「郷土中国」とは、中国社会の根底に迫ろうとする意思を示す概念なのである。本書において梁鴻氏は、グローバル化の波に洗われつつある中国の現状を象徴的に示す場である中国農村に目を向け、中国社会に内在する要素に迫り、そのことによって大きな激動に見舞われている郷土社会の根底を描き出そうと試みたと考えられるだろう。

しかしながら、郷土中国を的確に把握し、それを表現するのは、決して容易なことではない。梁鴻氏が本書で用いたのは、ノンフィクションのスタイルであった。

本書の原型となった作品「梁庄」は、中国を代表する文学雑誌『人民文学』2010年第9期に発表された。「梁庄」が発表される前の2010年第2期、それまで「中篇小説」「短篇小説」「散文」「詩歌」などジャンル別を基本としてコーナーを分けていた『人民文学』に、新たに「ノンフィクション」のコーナーが設けられた。雑誌の編者の言によると、ノンフィクションを厳密に定義することは難しいが、いわゆるルポルタージュとは違うもので、個人の観点や感情を含んだ社会調査の類であるという。どうやら編者の意図は、フィクションに収まらない形で、社会や現実と切り結ぶ新たな文学ジャンルを生み出したいということだったようである。「梁庄」はそのコーナーに発表され、大きな話題を呼び、2010年の『人民文学』の「ノンフィクション」を代表する一作となった。

『人民文学』の「ノンフィクション」コーナー設置は、多くの議論を引き起こした。議論の中で、梁鴻氏も、ノンフィクションとは何か、「梁庄」の書き方はどのようなものであるかについて、様々な場面で回答している。そもそも梁鴻氏は中国文学の研究者である。魯迅から始まる農村を描く中国の小説について、研究者の立場から考察をしてきた。それを経て「梁庄」の書き方にたどりついた。梁鴻氏のノンフィクションに対する考えは、『中国在梁庄』を再版したときに付録としてつけた文章「艱苦に満ちた「帰還」」に記されている。

この文章で梁鴻氏は、本書が故郷の村に帰還しようという試みであったと述べた上で、それがいかに困難で、ほとんど不可能であるかを論じている。たとえばノンフィクションに対してしばしば問われる「真実」について、彼女は、文学作品の真実とは「このようだ」と示すものではなく、「私が見たのはこうだ」と提示するものだと述べた。ただし、個人の観点の強調は、自分の好き嫌いによって勝手な語り方をするという意味ではもちろんない。ここで梁鴻氏が述べたのは、いわゆる客観的な描写が、往々にして前提となる認識の枠組みに基づくため、対象の生きている姿を取り逃すことであった。現在の中国の農村のような対象は、描写した瞬間に、その描写が対象からかけ離れてしまう可能性がある。したがって常に書いている「私」を疑う必要がある。自分に対する疑いを手放さず、執筆した瞬間に対象を取り逃しているかもしれないと意識しつつ、一歩一歩描写を進めていくしかないというのが、梁鴻氏の考えである。

作者である自己を疑った書き方のひとつの帰結であろうと思われるが、本書で梁鴻氏は、人物の語りをそのまま書き写す手法を意識的にとっている。彼女はインタビューの録音を聞きながら、農民のことばの「豊かさ、智慧、ユーモアに揺さぶられた」という。そこで農民のことばを梁鴻氏のことばに置き換えることをやめ、「できるかぎり、彼らのありのままの語り、話しぶり、話しことば、方言を書き表し、テーマとあまり関係がないが話し手が強く語りたいと思っていたことばを残し、それによって梁庄の歴史と生命の状態を提示したいと思った」と述べた。

農民たちのことばは、必ずしも整理されていなく、ときには矛盾することすらある。本書は、そうした矛盾をそのまま文字として残すことによって、理知的に整理された文章によっては表現できない郷土社会の真実を表現しようとした。書き手である「私」を疑い、農民の理知的ではない声をそのまま提示すること、それは社会の底辺にいる農民の声を知識人が代弁することに疑問を持ち、農民の声なき声を表象する道を探るという意味において、あたかもスピヴァク『サバルタンは語ることができるか』と問いかけを共有しているとも考えられる。本書はもちろん中国の農村を描いた作品であるが、その射程はより広い問題系にまで届いているのではなかろうか。

梁鴻氏は本書発表後、フィクションに近づいた。ノンフィクションとフィクションの境界を問うような作品をいくつか出したあと、最近では、彼女の父親とおぼしき人物を主人公として中国農民の心理構造を描いた小説『梁光正的光』を発表した。農村をいかに表象するかをめぐる彼女の探究は、フィクションやノンフィクションという形式にとどまることなく、まだ続いている。

なお、梁庄については、梁鴻氏のガイドのもとテレビカメラが村を紹介した動画「理想国 梁鴻的梁庄」三部作がある(https://v.qq.com/x/cover/ww5uw2y13cgbir2/m0022al71fv.htmlなど)。長い映像ではあるが、梁庄の内部および川、呉鎮など本書の舞台を映像として見ることができる。また『中国在梁庄』は、現在までに、中国大陸以外でも、香港(2011年)、台湾(2015年)、フランス(2018年)で出版され、チェコでも抄訳が出ている。世界的に読まれつつあることがうかがえる。

「梁庄」は『人民文学』に掲載されたあと、構成と内容を大きく変え、江蘇人民出版社から『中国在梁庄』と題して単行本として出版された。その後、多少の修正を施した再版が、2014年、中信出版社から出版された。日本語訳は中信出版社のバージョンを底本にした。ただし日本での出版に合わせて、一部割愛したところがある。

翻訳にあたっては、鈴木、河村、杉村の三人で分担した。鈴木が第一章、第二章、第三章、第八章、河村がまえがき、第六章、第七章、あとがき、杉村が第四章、第五章の初稿を作った。その後三人で訳文の相談を行い、語り口を調整した。しかし、本書の最大の魅力である農民のことばは、日本語で充分に表現することはできなかった。それは原理的に不可能だとも思われるが、とはいえ訳者の力不足を謝罪したい。

本書の翻訳にあたってもっとも感謝すべきは、作者の梁鴻氏である。訳者の問い合わせに丁寧に対応し、また多くの貴重な写真を提供し、最後には文章の割愛も許可してくれた。〔以下略〕

訳者を代表して

鈴木 将久

copyright Suzuki Masahisa 2018
(筆者の許諾を得て転載しています)