みすず書房

「はじめに」より抜粋。田宮聡『ケースで学ぶ 自閉症スペクトラム障害と性ガイダンス』

2019.02.22

だれにとっても大切なのに、口にすることがはばかられる問題。
支援にかかわる人必携の、120のケースで学ぶ解説書です。
「はじめに」よりの抜粋をここでお読みになれます。

はじめに

田宮聡

性の問題は、年齢・性別を問わずだれにとっても重要事項ですが、なかなか口にすることがはばかられるものです。しかし、自分自身のことであれだれか他の人のことであれ、性に関する心配事を抱えて悩んだり困ったりしたことがまったくないという人は、ほとんどいないはずです。また、性をめぐって不適切なふるまいをしてしまって、周囲の人や社会全体に迷惑をかけてしまう場合もあります。その極端な例が、性犯罪です。

したがって、なかなか向き合いにくい問題ではありますが、われわれ人間の性的な側面が、日常生活にどんな影響を及ぼしているかを理解することはとても大切です。そして、いわゆる「性教育」を通じて、性に関するいろいろな問題にどう対処してゆけばよいかを、いろいろな人と一緒に考えることも大切です。

性教育の大切さは、自閉症スペクトラム障害がある人でもない人でも当てはまります。ただ、本書中で述べるように、自閉症スペクトラム障害をもつ人の場合、社会性の困難さなどの障害特性のために、性をめぐるふるまいが違ってくることがあります。そのため、そのような特性を踏まえたうえでの理解や支援が必要になってきます。たとえば、オーストラリアの心理学者マーク・ストークス氏は、性的な行動やプライバシーの理解度には、年齢と社会性とが大きな影響を与えるので、高機能自閉症青年に対しては、対人関係に重点を置いた特別な性教育が必要であると述べています。

しかし、現実はどうでしょう。筆者の手元に、『自閉症と広汎性発達障害ハンドブック』という、全2巻から成る専門書があります。アメリカの自閉症研究者たちが中心になって執筆された本です。2005年に出版されたそのハンドブックの第3版のなかで、「sexual education(性教育)」という単語が出てくるのはたった1カ所、それも、この大部の書物の最終ページ(1313ページ目)だけでした。そこには、こう書かれていました。

必要な性教育が的確になされていることはまれにしかありませんし、それをだれの責任で行うべきなのかも明確ではありません。多くの学校やソーシャルワーカーにとって、異性との関わり方や性欲の解消の仕方などの話題を、自閉症の青年にわかりやすくかつ生活で生かせるように指導するのは、至難の業です。小児科医は、思春期を迎えた女子が長期的な避妊で自分自身を守る必要があることや、何が適切なふるまいで何が不適切なふるまいかを男女双方に明確に指導する必要があることを、見逃してしまうことがあります。レイプの被害者となったり性犯罪の加害者となったりするかもしれないということなど、保護者もまったく念頭にないことが多いので、指導を要します。

そして、この第3版で性の問題がある程度まとまって取り上げられていたのは、「自閉症をもつ青年と成人」という章のなかの数カ所で、合計1ページほどの分量だけでした。

2014年に出版された同じハンドブックの第4版を見ると、「性教育」という言葉が本文中で使用されている箇所はありますが、索引からは消えています。そして、索引で見るかぎり、「sexuality(性)」が取り上げられているのは全1126ページ中2カ所にとどまり、合計の分量はわずか4分の3ページほどです。このように、自閉症児・者に対する性教育の重要性は、認識されはじめてはいますが、最近十数年ほどのあいだにその認識が広まっているとは言えないようです。

わが国でも最近、保健師であり養護教諭でもある、岐阜大学の川上ちひろ氏の『自閉スペクトラム症のある子への性と関係性の教育』などのすばらしい著作がありますが、その数はかぎられています。

その一方、自閉症児・者の家族は、性的な問題に関する不安を抱えて生活しているのです。2005年にオーストラリアで発表された研究結果では、定型発達児の保護者よりも、高機能自閉症児の保護者のほうが、性的な問題に関する不安が明らかに顕著であったとされています。

筆者は、児童精神科医として、自閉症スペクトラム障害をもつ子どもや大人と数多く出会ってきました。そしてそのなかで、さまざまな形で性の問題が浮かび上がってくる多くの状況を体験しました。どれも大変難しい問題で、問題解決のために、当事者や家族の方と話し合ったり、いろいろな文献にも当たったり、職場の同僚たちと知恵を出しあったりしてきました。それでも「解決」できなかったことも多々ありました。

そういった事例を、今回こういう形でまとめさせていただきました。本書を手にしてくださる方は、なんらかの理由で性の問題に関心をおもちなのだと思いますが、おそらく、多くの読者の方にとって、同じような経験をされたケースが見つかるのではないでしょうか。もしそうであれば、それは例外的な特殊ケースではないということをまずおわかりいただけると思います。そして、そのようなケースで苦労したり悩んだりしていることが、ご自分の経験不足や至らなさのためではなく、だれにとっても難しいのだということをご理解いただければ幸いです。普遍的な「正解」というものがなかなか見つからない問題だと思いますが、これまでの取り組みをご覧いただいて、何か参考にしていただければと思います。そしてさらに、自閉症スペクトラム障害と性の問題を、今後いろいろな形で取り上げていただけるようになれば、望外の喜びです。

copyright © TAMIYA Satoshi 2019
(著者の許諾を得て転載しています。
転載にあたり読み易いよう行のあきを加えた箇所があります)