みすず書房

「まえがき」より抜粋。中村隆文『リベラリズムの系譜学』

――法の支配と民主主義は「自由」に何をもたらすか

2019.04.22

まえがき

中村隆文

「自由」とはわれわれの社会において常に関心事である。もし、やりたくもない仕事に就かされてそれで一生を終えるとすればそれは奴隷人生のようなものである。

また、やりたい仕事についてどんなに働いて稼いでも、それで自分の欲しいものを買えないほどに税金を搾り取られるのであれば、そんな社会を飛び出したくなるか、あるいは社会を変革したくもなる。身体・労働・財産に関する権利といったものが認められるからこそ、それに基づいた自由な就職や退職、恋愛や結婚(離婚)など人生の選択肢が広がる。

それに、人は自分自身の自由意志を価値あるものと信じており、その生をできるだけ自分の意志のもとで生きたいと望んでいる。こうした望みのもと、われわれ人間は、自身の人生の可能性を追求したり、幸福を実現するための運動を、個人レベルだけでなく社会レベルでも長年にわたり続けてきた。人類の歴史は自由を求める歴史といってもよい。

自由を重視する立場は通常「自由主義liberalism」(以下「リベラリズム」)と呼ばれるものであるが、概してリベラリズムとは、「社会において保障されるところの個人の自由をできるかぎり最大化しようとする立場」といえる。

ただし、リベラリズムにおいて自由が保障されるということは、自然そのままに、なんの足枷もなく好きなことを各自がしている、という自然状態を意味するものではない。それは、自然状態とは異なる意味で「自由に自己決定をする」という社会状態を意味するものであり、だからこそ、政治に参加したり、公平に裁かれたり弁護人を立てたり、といった社会制度のもとある程度の──正当と認められるような──権限・権利が保障されることをリベラリズムは求めるのである。

つまり、ある社会において有意義な形で個人を自由たらしめるためにはそれに適した社会システムが必要といえる。そして、それは「民主主義」という駆動系システムと、「法の支配」という制御系システム、それら二つのバランスのとれた両立にこそあるのではないのか、というスタンスこそが本書の議論の出発点であり、そして示されるべきゴールということになる。

(中略)

本書の流れにそって社会思想史を振り返ればわかるように、既存の社会システムおよび人々の意識の変化に応じ、リベラリズムそのものも発展してきている。

法的に保護された個々人による自由な発想が政治的主張となってそれが政治システムに入力され、それが多くの人々の意識に影響を与え、新たな正義概念を醸成し、それがさらに政治や司法に影響を与える形で社会システムが変化し、そこからまた新しい発想のもと……というような相互作用の繰り返しがそこにはある。その結果としての「法の支配」と「民主主義」のこれら二本の柱を今後いかなる形で補修・強化してゆくかによって、われわれの「自由」の在り方も変わってくるであろうし、それは社会で生きていくうえで避けがたい仕事でもある(政治家にまかせるにせよ、自分たちで取り組むにせよ)。

「自由」の種は、二千年ちょっとの間に芽吹き、花を咲かせ、その果実を享受し、ときに品種改良しながらわれわれ人類はここまでやってきたわけである。ただし、もしかするとわれわれは、種を再度土壌に戻したり、あるいはさらに改良することで「自由」を後世に託しつづけるか、あるいは、果実を味わい尽くしてしまったうえでその種を大地に戻すことなく、ここ二千年あまりのプロジェクトに終止符を打つか、の分岐点に立っているのかもしれない。

リベラリズムにおいては自由を拒絶する自由すらも認められるべきか、あるいはそんな矛盾した不合理な自由は拒否されるべきか、という問いは非常に難問ではあるが、知の探究としての哲学(法哲学および政治哲学)をする以上、「自由を拒絶した先に何があるのか?」と真剣に考え、その選択可能性を考慮すること自体も決して無意味とはいえないように思われる。

とはいえ、まずは、議論の背景ともいえる自由の実現の歴史を辿っていくことにしよう。哲学的営みを行うにあたっては、自分で考えることはもちろん大事なことではあるが、しかし「使えるもの」は使ったほうがよいわけで、これまでの「自由」の収穫作業・改良作業のプロセスを学ぶことで、ここからどこへ進むべきかの指針が見えてくるかもしれない。そうした点では、リベラリズムの系譜を振り返るということにはそれなりの意義があるし、本書がその一助となれば幸いである。

copyright© NAKAMURA Takafumi 2019
(著者の許諾を得て抜粋転載しています。なお、転載に
あたり読みやすいように、改行・行のあきを加えました)