みすず書房

本格評伝にして作品論の決定版。「あとがき」ウェブ転載

三宅理一『安藤忠雄 建築を生きる』[24日刊]

2019.12.20

世界のアンドーの全体像に迫る建築史家渾身の書き下ろし。
「あとがき」のほぼ全文を以下でお読みになれます。

三宅理一

近年の安藤忠雄がおりにふれて語るのは、世界をにぎわせているウクライナ出身のプロボクサー、ワシル・ロマチェンコのことである。軽量級で世界を制し、2014年以降、ずっと王座を守りつづけている。その特徴は抜群のフットワークによる圧倒的なスピード、そして相手を寄せつけないディフェンス力にある。相手がいくら打ちこんできても空振りに終わり、頃合いを見計らって決定的なパンチを喰らわす。このやり方を見て「何事も基本は防御力にある。これを見習わなければいけない」と会う人ごとに諭すように語っている。

ロマチェンコの圧倒的なディフェンス力こそ、日々の仕事のなかで見習わなければならない。事務所の経営、社会的な奉仕を含め、仕事のひとつひとつをていねいに基礎から固め、隙があってはいけない。質にこだわり、持続力をもってこそ、はじめてそのチームなり建築を守ることができる。日ごろの安藤がモットーとしていることであるが、ことボクシングの喩えが出てくると俄然燃えるのである。

前衛と呼ばれる建築家は新しいものを世に打ちだし、それを滔々と語ることは得意である。しかし、その急進性のためにクライアントともめ、職人たちからはそっぽを向かれて施工がなおざりにされ、二十年も経ってみると建築が無残な姿になっている例が後を絶たない。攻撃には強いが守りが弱い。これでは駄目である。建築を持続させ、質を担保させるためにも、いまを大事にして建築の領分を守り抜かなければならないのだ。

本書は、安藤忠雄というひとりの建築家に的を絞り、その生い立ちから現在にいたる建築歴を土地や人との関係の仕方を軸にして論じたものである。いまや何百という単位で世界中に建築作品がつくられ、直島やヴェネチアなどで作品めぐりができるスケールにまで広がって、「安藤忠雄」なるものは世界的な出来事として理解されている。アンドー・ウォール、アンドー・キューブといった語も昨今の建築語彙として定着しつつあるようだ。日本以上に海外では、ひとりの建築家の枠をこえ、ひとつの文化現象として理解されはじめている。

しかし、安藤忠雄をほんとうに理解するためには、その人に刷りこまれた信条や生き方、美学や土地に対する見方を十分に知らなければならない。メディアの上で生産され消費されている建築家像とは異なったレベルで安藤忠雄の実像に迫りたい。これが本書を執筆する動機であり、そのために各地をまわり、建築家本人からも詳しい話をうかがった。

安藤は人間関係をほんとうに大切にする。育った大阪という基盤の上に人との関わりあいを発展させ、グローバルな水準まで高めている。それゆえに本書でも、建築作品を単独で記すのではなく、それが生みだされ実現していくプロセスに焦点をあて、土地、人間、そして技が絡みあいながら、建築と環境を定位させていくさまがわかるよう心がけた。

それでも膨大な仕事をこなしてきたこの建築家について十全に記述するのは不可能に近い。なんといっても作品の数が多く、その全貌をきわめるのが大変だ。それに比例して資料類も多く、まだアーカイブも整理されていない段階で、それらを渉猟すること自体、至難の業である。本人そしてスタッフが描いたドローイングや図面は膨大な数におよび、いったいどれだけあるのかよくわかっていない。しかも彼の足跡は世界中におよび、交友関係を含めて、世界各地をまわらないかぎり、その詳細はわからない。

だから、本書はとても安藤忠雄の全記録と呼ばれるようなレベルには達していない。安藤に関わるテーマ群を設定して、それに関わる活動を抽出してつなげたもので、それゆえに建築家安藤忠雄のある側面というかたちで理解していただければさいわいである。

筆者自身が安藤忠雄の作品を訪れたのは「小篠邸」がはじめてであった。たしか1983年であったと思うが、建築雑誌の編集者に連れられ、安藤自身の案内で時間をかけて見てまわった。その後おりにつけて新しい作品を見る機会があり、批評文などを寄稿したりもしていたが、そのうち作品が海外に続々と建つにおよんで全体像を見極めるのがけっこう大変になってきた。それでも機会をとらえてヨーロッパやアメリカ、アジアの作品を訪れてみると、日本では想定できないようなスケールで安藤忠雄の空間が成立しており、「安藤さんの相手はいまや小さな日本ではなく世界そのものなんだ」と妙に実感したものだ。本書でも海外についてもなるべく多くの事例をふれるようにしたが、韓国など重要な作品がありながらも今回は入れることができなかった。

そういえば、筆者が大学で設計製図を教えるときに教材としていつも使っていたのが「住吉の長屋」の図面であった。設計演習を始めたばかりの低学年の学生にトレーズから始め、透視図、そして模型制作と順を追って作業を進めることができ、プロポーションがよいので学生にとっても模型の出来栄えに満足することができる。わかりやすく、建築のベーシックを知るうえで大変有用な教材である。他の大学に聞いてみると、けっこう「住吉の長屋」を使っているケースが多く、つまりは建築系の学生の多くが頭のなかにこの住宅が刷りこまれているということである。

喜寿を過ぎても安藤はたいそう忙しい。ふだんは事務所での設計活動、国内外の講演活動、そして植樹に代表されるボランティア活動と大きく三つに分けて時間を使っているという。あれだけの大きな仕事をこなしながら、外での活動ができるのも、事務所内にチーム体制が徹底させているためで、まさに守りの姿勢に徹した安藤の智慧といえるだろう。

copyright©MIYAKE Riichi 2019
(著作権者の許諾を得て転載しています)

三宅理一『安藤忠雄 建築を生きる』(みすず書房)カバー

  • [カバー写真]1969年、事務所開設直後の安藤忠雄
    (提供・安藤忠雄建築研究所)