みすず書房

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カルロ・ギンズブルグ『糸と痕跡』

上村忠男訳

歴史は真実をめざす


古代ギリシア人にとって、ホメロスの叙事詩は神話ではなく歴史だった。なぜか。ホメロスの詩は「いきいきとした印象をあたえること」をめざしていたからである。

歴史がめざす目的は真実である。そして古代の歴史家は、自分の言っていることが真実であるということを伝えるためには、「いきいきとした描写(エナルゲイア)」を利用して、読者を感動させ納得させなければならなかった。エナルゲイア――すなわち人物が、出来事が、あたかも目の前でいきいきと躍動しているかのような臨場感、である。
古代のギリシア人やローマ人にとって、真実とはエナルゲイアがもたらす効果のことだった。そこには、歴史の語り―描写―生彩―真実、という連鎖が存在した。現代のわれわれにとってはそうではなかろう。歴史の真実の基礎をなすものは、あくまで「証拠(エヴィデンス)」である。エナルゲイアのもたらす効果は、もっぱらフィクション(物語、小説、映画など)に求められる。

断絶は17世紀にあった。この時代になってようやく、歴史における一次資料と二次資料との違いが体系的に分析されるようになった。しかもこうした資料の扱いに自覚的だったのは、政治史や軍事史を事とする歴史家ではなく、メダル、貨幣、彫像、碑銘などを調べる古遺物研究家だった。
エナルゲイアからエヴィデンスへ。西欧における歴史観の大きな転換は、ルネサンスからバロックの時代に起こった。その間にはもちろん印刷術の普及があり、歴史文書を記録する形態の変化が、こうした転換に大きな影響をあたえている。

ギンズブルグは本書の1章(描写と引用)で、概略以上のような歴史をめぐる大転換を、わずか35ページほどの試論で展開してみせる。そこに凝縮された、圧倒的な博識と傍証。歴史叙述をめぐる思弁的な考察が、これほど知的興奮をもたらす例は稀であろう。人文学の底力がここにある。




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