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今井武夫『日中和平工作』

回想と証言 1937-1947 [高橋久志・今井貞夫監修]

盧溝橋事件の現地停戦協定、汪兆銘工作、フィリピンのバターン戦、繆斌工作、漢奸問題……日中戦争の発端と降伏の会談に立ち会った陸軍軍人の回想録に、著者自身の加筆、取材テープを起こした証言、解説を新たに加えた『支那事変の回想』の増補改訂版、『日中和平工作』をお届けいたします。

登場する中国人に、ルビを振りながら


「当時斥候の調査報告を聞いた憲兵隊長の赤藤庄次少佐と特務機関の寺平大尉は、北方局とか、その責任者劉少奇とかいう氏名に大して関心を払わなかったが、今にして思えば、劉少奇こそ現在世に時めく中共政府主席其の人である。」(「第一 蘆溝橋事件」より)

今回、『日中和平工作』を編集するにあたり、数々の検討課題が浮かび上がってきた。その一つに、ルビの振り方がある。『支那事変の回想』の1964年の初版では、中国人の人名については、全300人弱のうち、数%に振られているにすぎなかった。おそらくその当時は、ここに登場する中国人は、ある程度、読むことができて当たり前であったことを、示しているようにも思われる。ところが、今回ゲラを前にした1967年生まれの私にとっては、9割5分、読むことができなかった。そこで、中国人の人名については各章の初出に、日本語読みでルビを振ることとした。とはいえ、今回監修いただいた、今井武夫のご子息(三男)の今井貞夫氏との編集の打ち合わせにおける、「オヤジは、〈シュウ・フツカイ(周仏海)〉を〈シュウ・ブッカイ〉と言っていた」という裏話の例もあるように、何を準拠にルビを振るのか、という問題にぶつかった。

その折りに、並行して日本人の軍人で、姓のみ記されている場合、名前を〔 〕で補う作業を、図書館の軍人辞典で調べていた時に発見したのが、『改訂 現代支那人名鑑』(外務省情報部編纂、東亜同文会調査部、1928年)、『現代中華民国満州国人名鑑 昭和7年版』(外務省情報部編纂、東亜同文会調査部、1932年)である。それぞれ、当時の中国の、政治家(共産党、国民政府)、軍人、財界人の、経歴が記されている膨大な名鑑である。図書館に籠って、繰り始めたのだが、読みが分からない人名を調べるのはもちろんのこと、たとえば冒頭引用した劉少奇が、当時どのように記述されていたのか(実は、前掲の昭和7年版名鑑では登場せず、また同じ名鑑の昭和12年版、つまり盧溝橋事件の年にも登場せず、別の昭和14年刊の人名地名便覧にようやく「共産党首脳部」と出てくる)など、今井武夫の戦後の感慨を検証することもできた。

このように『日中和平工作』では、他に川島芳子からの抗議文など、余談のように記されているエピソードも、本筋の回想に劣らず興味深い。今回、著者の書き込みを新たに加えた箇所も、余談とも言えるものも少なくないが、今井貞夫氏もコメントされていたのだが、今後の歴史研究の課題となりうる内容も多いものと思われる。

日記をつけていたとのことだが、それにしても300人弱の中国人を記憶していたとは、驚きである。「馮治安が、自ら電話口に出て呼びかけて来た電話であった。……〈最近省政府所在地の保定に、新たに外賓接待所をつくったから、開設早々賓客第一号に今井武官を招待し度いと思う。就ては突然であるが、今日自分の帰任と一緒に保定に同行してくれぬか〉という、誘いである。……馮治安は四十二歳の青年将軍で、瘠せがたの身体にファイトの汪溢した、見るからに剽悍で単純な軍人気質だけに、日本軍からは排日の元兇のように見られ、私にも彼との交際を中止するよう勧告する人もあった。」とのエピソードからも想像できるが、自身で築いた中国人人脈を元に、上記名鑑のような膨大な人物情報を蓄積することが、前線における和平工作を担う力の基礎となっていたのではないか、とルビを振り終えて感じた次第である。 (出版部・山禄和浩)




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