みすず書房

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『アドルノ 文学ノート』 1

三光長治・恒川隆男・前田良三・池田信雄・杉橋陽一訳 [全2巻]

〈エッセイという形式は、動揺〔脱‐構成〕と未完性を表現するものだ。その思索の範囲は、しばしば、エッセイの、時機に左右されるという性格に規定される(批評エッセイとは、つまるところ、外部の出来事が生じたり、書物や絵画が話題になるときに求められるものなのだ)。ほとんどのエッセイが向かう先は、断片やアフォリズムであって、単行本や学術論文ではまずない〉。

これは、先月第2巻が刊行されたエドワード・サイード『故国喪失についての省察』の「R・P・ブラックマーの地平」(第1巻収録)にあることばである。このことばに続いて、『アドルノ 文学ノート』の巻頭をかざる「形式としてのエッセー」を、サイードは長々と引用する。

サイードにとって、アドルノはつねにモデルであった。たとえば、その「家とはつねに一時的なものにすぎない」という命題からサイードは「故国喪失」という主題を構想し、その音楽論に圧倒的な影響をうけ、アドルノからヒントを得て「後期スタイル」という概念をサイードは練り上げた。なかでも「形式としてのエッセー」でアドルノが展開したそのスタイルは、アドルノがその文章のなかで幾度となくとりあげた『魂と形式』のルカーチともども、エドワード・サイードという批評家に決定的な刻印をのこした。(ちなみに、サイードは、その師匠であるブラックマーとアドルノを「20世紀でもっとも個人主義的で反抗的であったふたりの批評家」と呼んでいる。)

さて、「形式としてのエッセー」にとどまらず、本書は、アドルノという思想家がつむいだエッセー集成というべきものである。ハイネ論であれ、ヴァレリー、ルカーチ、ヘルダーリン論であれ、この全2巻に収録した文章の数々は、サイードならずとも、その後何度となく取り上げられてきた。

難解で知られるアドルノだけあって、本書にはさらっと読み流せないような本格的批評が満載であるが、そのなかで本が好きでたまらないアドルノの素顔がそのままあらわれている文章がある。「句読点」(第1巻)、「表題」「書物を愛する」(第2巻)である。「句読点」は文字通り句点・読点・コロン・セミコロン・ダッシュ・引用符など、いわゆる「約物」を主題としたもので、「文章を書く」ことにいかにアドルノがこだわっているかがよくわかる。これは雑誌『みすず』6月号にも掲載したので、ぜひ読んでいただきたい。また、「表題」では、本書のタイトルについてのエピソードにも触れられている。アドルノは当初、本書を『歌のない言葉』にしようと考えていたが、出版者のペーター・ズーアカンプから、それはあまりに安っぽいといわれ、思案の末、『文学ノート』を提案されたという顛末である。




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