みすず書房

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ナシア・ガミー『現代精神医学原論』

村井俊哉訳

20世紀、それは精神医学にとってもかつてない速度で変革を遂げた世紀であり、未曽有の経験であった。その変革のひとつに、いまや国際的な診断基準となり、わが国でも用いられているDSM(「精神疾患の分類と診断の手引き」、現在は第4版新訂版のDSM-VI-TRが用いられる)がある。
『現代精神医学原論』において、ナシア・ガミーはその変革に混乱する米国精神医学界の様子に触れている。

DSM-III(第3版)の採用された2年後の1982年、トロント。その妥当性について、米国精神医学会による討論会が開催されていた。 その席上、精神分析家のロバート・マイケルズは以下のようにDSMを批判した。
「[DSM-IIIの作成にかかわった]スピッツァ―博士と彼のグループは、1950年代の脳なき精神医学から、1980年代の心なき精神医学の危険へと私たちをいざなった」

のちに、ときには尾ひれをつけてたびたび引用されるようになったこの言葉は、まさにDSMという疾病分類における科学的な新機軸に対する、当時の混乱と憂いを象徴している。ガミーも、一方ではDSMが精神医学における「聖書」のように信奉されることを危惧するものの、他方では、精神医学界における力動の変化を指摘し、むしろ肯定的にとらえるのである。
力動の変化とは、「偉大な教授の原則」から「専門家の合意」へという変化である。クレペリン、フロイト、マイアー……ほか、偉大な教授のイデオロギーへの依存は、生物学者・遺伝学者・政治的指導者からなる「専門家」の合意へととって代わった。そしてガミーは、専門家の合意をさらに「実証的にテスト可能な仮説」にするものとして、DSM-IV(1994)は存在するという。さらにガミーは「DSM-IVに挙げられた要件をすべて満たす“完璧な精神症状”をもつ患者などいない」とまで言い切り、DSMの診断項目は単に「モデルケース」だと主張するのである。

本書に触れると、DSMは20世紀に精神医学が経験した巨大な変革のひとつにすぎないことがよくわかる。行動科学的療法の興隆と力動的精神医学の衰退、そして精神薬理学の急激な進歩は院外市場をも巻き込んで、大きく私たちの生活を変えた。精神医学の行く道とは、辛くもロバート・マイケルズが予見したように「心なき精神医学」の精神医学の時代へと突入する道なのだろうか。

精神医学重要文献シリーズ Heritage

◆創刊◆

このたび小社では「精神医学重要文献シリーズ Heritage」を創刊いたしました。
激動の20世紀を精神科医として生きた医学者たちの選りすぐりの著作を新編集で刊行いたします。著者のラインナップは、いずれも国際的診断基準がわが国に導入される前から医師として臨床研究に携わってきた歴戦の臨床家ばかりです。
シリーズの第1弾として、村上仁『統合失調症の精神症状論』、山下格『誤診のおこるとき――精神科診断の宿命と使命』の2冊を刊行いたしました。いみじくもDSMと精神科診断について山下氏が同書の中で述べていることには、

「精神医学の研修は、DSMやICDの診断項目の暗記よりも、病者の訴えを正しく受けとめ、心を配り、理解を深める診察態度を身につけることから始めねばならないのである」

激動の世紀をすぎ、21世紀を担う精神医学徒たちを育むものは、「偉大な教授の原則」ではなく「偉大な先人たちの背中」であるかもしれません。次代を担う若き精神医学徒のため、長く読まれつづけ、語り継がれるシリーズとなるよう、今後も実践的かつ魅力的な本を加えていきたいと思います。

[第1回配本・既刊]

村上仁『統合失調症の精神症状論』
山下格『誤診のおこるとき』
[第2回配本・2月刊予定]
中井久夫『急性期統合失調症論』
竹中星郎『老いの心と臨床』
[以下続刊]
井村恒郎『失語症論』
笠原嘉『妄想論』
中井久夫『慢性期・寛解期統合失調論』
ほか
シリーズ概要
  • 各巻に新たな解説を付す
  • 各巻四六判・上製 160-250頁
  • 予価各3200円
  • 3カ月ごとの刊行を予定



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