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V・ザスラフスキー『カチンの森』

ポーランド指導階級の抹殺 根岸隆夫訳

最新公開資料を十全に駆使し、事件の真相、連合国による隠蔽工作、さらに歴史家の責任まで、簡潔にバランスよく分析した、いわば「カチンの森」決定版。ヴィクトル・ザスラフスキー『カチンの森』は、2008年にハンナ・アーレント賞を受賞している。

アンジェイ・ワイダ監督の映画『カティンの森』が公開された。一方、カチンの森70周年追悼行事を前に起こったポーランド大統領機墜落事故も記憶に新しい。事件そのものに対する関心がにわかに高まった。在ドイツの訳者が、冷徹な国際政治の駆け引きを解説する。

カチンの森の悲劇、
70年前に開いた幕はいつ降りるのか?

根岸隆夫

2010年4月7日、プーチン首相はロシア首相として初めて、ポーランドのトゥスク首相をカチンの森に招き、ポーランド将校の70周年慰霊祭をおこなった。その3日後である。4月10日の早朝、西ロシア、スモレンスク軍用飛行場のそばで、カチンスキ・ポーランド大統領一行要人96人の乗機トゥポレフ154が濃霧のなかを着陸に失敗、誰も助からなかった。その数時間後に事故現場近くのカチンの森で、ポーランド主催の追悼行事が予定されていた。

プーチン首相は現場に急行して、両国合同の事故原因調査委員会を組織するよう指示、悲報を聞いたモスクワ市民数百人がポーランド大使館に弔問に訪れて献花した。それまでは、カチンの名は忘れ去られ、一欧州周辺国のローカルニュースだった追悼行事が、にわかに世界の注目を浴びる。

悲報を聞いたポーランド国民は、カチンの森という怨念の地にあらためて想いを馳せた。国は一週間喪に服し、快晴の4月18日、古都クラクフの王墓のある大聖堂で国葬が営まれた。ここは救国の英雄コシューシコやピウスーツキが眠る、ポーランドのパンテオンだ。赤と白の国旗に覆われた棺をのせて砲車がすすむ道筋で、数万の群衆が「カチンスキ、ありがとう」と連呼して見送った。じつは、カチンスキの人気は20パーセントに凋落、6月20日の大統領選挙での再選はおぼつかないとされていた。その挽回を意識してのカチン犠牲者追悼行事だったが、かれは森に吸いこまれるように遭難し、一転して国民的英雄に昇格した。国民は一時であれ異を捨てて一体化した。そうさせたのは森の死者たちである。

大聖堂には、メドヴェジェフ・ロシア大統領の姿があった。オバマ大統領はアイスランドの火山灰に邪魔されて参列できなかった。葬儀で、与党「市民綱領党」から大統領候補として立つ臨時大統領、コモロフスキは「カチンの悲劇を克服し、ロシアとの接近と和解を実現することがカチンスキの遺言。スモレンスクの悲劇は世界にカチンの悲劇を知らせた」と演説した。ほとんど報じられていないが、カチンスキはカチンの追悼式に、いままでの態度を一変させて「ロシアとの和解を訴える」演説原稿をたずさえていた。

弁護士のカチンスキは、ワレサの「連帯」運動の法律顧問として政治運動に入り、反ソ・反露を信条とし、いまは野に下った「法と正義党」を、双子の兄とともに指導した。ふたりは可愛い子役で、子供むけ映画に出演し、ふたりとも法律家となり、政治運動をともにし、弟レフが大統領、兄ヤロスラフが首相の時期さえあった。そのレフ・カチンスキが、こじれた対露関係打開に方針を秘かに転換していたのだ。

一方、メドヴェジェフは葬儀のあと、ポーランド国営テレビに「大きな犠牲にかんがみて、両国の接近と経済提携の活発化のため、カチン事件をふくむ二国間の難問解決に努力する」と語った。ロシアがカチンの文脈で経済問題に言及したのは初めてではないか。5月10日、第二次大戦対独戦勝利の記念日には、赤の広場でロシア軍15,000名に米英仏とポーランドの部隊が加わり、メドヴェジェフの閲兵をうけて行進した。

メドヴェジェフはさらに、モスクワに滞在中のコモロフスキに、2004年に中止されたロシア軍事検察局のカチン事件調査の文書67巻を渡し、他の調査文書の提供も約束した。事件の調査は90年代に開始されたが、事件簿には生存者の尋問調書や処刑吏124名の名簿もあるとみられる。メドヴェジェフは中止された調査を再開する意向でもある。コモロフスキは「カチンの犯罪、カチンの嘘[ソ連が犯行を否定、ドイツ軍の犯行としたこと]は双方にとって棘だった。事件の真相究明は双方にきびしい試練を課すが、関係改善に欠かせない」と応じた。

メドヴェジェフは対独戦勝利を、スターリンの勝利でも、将軍たちの勝利でもなく、ソ連国民が勝ちとったものだと言い、スターリンの役割をあらためて強く否定した。さらに、第二次大戦関連の機密文書の公開も宣言した。実行されれば、ゴルバチョフ、エリツィン、プーチン時代とは打って変わって、情報公開への転換がはじまる。情報公開はロシアが近代化、民主化し、法治国家になる大前提だ。

ポーランドはこれまで、カチン事件犠牲者の復権、カチン関係文書の全面公開、全犠牲者の名簿、犯罪実行者の名簿と処罰、それに犯罪を時効のない戦争犯罪、ジェノサイドと定義することをロシアに要求してきた。ロシアは今後、それにどれだけ応えるか。両国の関係の正常化にはカチン事件の解明が必要、と両者とも認識しているが、解明の鍵はロシア指導部が握っている。もし、ロシア国内で抵抗と反対が起これば、それは19世紀末のスラヴ(守旧)派と西欧(進取)派の相克の再現を予想させる。そしてロシアの今後の経済発展のためには、隣国ポーランドと和解し、西欧への窓口にすることが必要だ。今回の墜落事故は、ロシアが国益を追求するための千載一遇のチャンスとなった。ここドイツから遥か東を遠望すると、両国はカチンの悲劇に幕を降ろし、未来に向けて歩調を合わせようとしているかにみえる。カチンが閉幕すれば、森の死者たちは初めて瞑目することができる。

(2010年6月10日 ねぎし・たかお 欧州全体主義研究)
Copyright Takao Negishi 2010

(このエッセイは、タブロイド版出版情報紙『出版ダイジェスト』みすず書房特集版No. 59、2010年6月10日号一面に掲載された文章に若干の補筆を加えたものです)
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