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J・W・スコット『ヴェールの政治学』
李孝徳訳
学校はフランス共和制の礎であり、宗教的世俗主義が原則である。
なぜフランスに生まれたムスリム少女たちが、退学処分の危険を冒してまでヴェール(と呼ばれたが、実際には顔は覆わないヘッドスカーフ)をかぶろうとしたのか。
フランスのスカーフ論争の過程で、少女たちの声は不在だった。
本書の醍醐味は、各章のタイトル「人種主義」「世俗主義」「個人主義」「セクシュアリティ」の視点からのフランスの「イスラーム問題」への切れ味鋭い分析にある。だが同時に、少女の繊細な心のひだで起きていることをみつめている。
少女たちはスカーフの着用を強制するイスラームの家父長制の犠牲者とされた。実際には、多くの貧しい家庭で、生活保護費の給付は子どもの就学と結びつけられていたので、家族は娘にスカーフを脱いで登校するよう懇願していた。
スカーフは国際イスラーム運動の象徴だとも言われた。だが少女たちはそれが何かも知らなかった。
一枚の布切れが標的となった。だがジーンズからひもパンが見える格好で登校した女生徒たちは、ひんしゅくは買っても、若者ファッション、個性の表現だとして見のがされている。
スカーフをかぶるのは、個的な探求による自由意思の行動、思春期に訪れた信仰へのめざめだったりした。
自分に尊厳を見出し、周囲や兄弟の嫌がらせや支配から脱出できたりした。
ある少女はインタビューに答えて言った。
「私は祈りから始めた……祈るときは、頭を覆わなければならない。でもすぐに、祈るときにはヴェールをかぶりながら、外出のときはヴェールを脱ぐというのは不可能なことだとわかった。ヘッドスカーフは私の一部だから」
自我が強まったり、人とは違う想念を育んだりするこうした未成年を保護し、精神の自由を確保させるのが学校の役割ではないのか。
スカーフをかぶることが共和国の原則や価値観に対する冒とくだと非難されると、無数の少女たちがフランス国旗の赤と白と青のストライプのスカーフをかぶった。
フランス国家が「同じであること」を要求する法律=スカーフ禁止法は、公立学校の教室を超えて影響力をもった。この禁止法は成人女性や女子大生には拡大されなかったが、女性たちはしばしばスーパーマーケットのレジ係を解雇され、銀行で受けつけてもらえなかった。裁判官はスカーフをかぶった者の宣誓を許さなかった。
「ムスリムでフランス国民」という資格は社会から拒否された。事実上、人種主義的表現が公認され、差別行為が合法化されることになった。
異質な他者への不寛容が、やがて社会自体をそこなっていく。「共通する存在(コモン・ビーイング)」でなく、「共通での存在(ビーイング・イン・コモン)」(哲学者ジャン=リュック・ナンシー)を21世紀の民主政治の基礎とすること。
ムスリム少女のスカーフをめぐる論争の射程は大きい。
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