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上村忠男『ヘテロトピア通信』

ヘテロトピアとは何だろうと考えるとき、辺見庸の著書名をタイトルにした本書収載の文章を思い起こす。辺見とほぼ同時期に脳梗塞に見舞われた著者は、右半身不随になった辺見の「リハビリ」ならぬ「自主トレ」を記した箇所に思わず相槌を打ったという。

《五年前、脳出血で右半身が麻痺するまで、歩くとは、呼吸とおなじくおおむね無意識になしうる自然動作であった。〔中略〕足はよく飼いならされた馬のように意識につきしたがった。意識はつねに実存に先行し、躰の原寸をはるかにこえる夢想にあそんだ。〔中略〕倒れてからはちがう。不具合のある躰が、意識の暴走を制動し、意識の傲慢と虚飾にてきびしい掣肘をくわえるようになった》
ここで辺見が指摘している「不具合のある躰」による「意識の暴走」の制動というのは、同じ躰の不具合に見舞われるなかで、わたしもみずから驚きながらひそかに感じていることにほかならないのだった。
(「水の透視画法」)

ヘテロトピアとはおそらく本質主義的に定義してはいけないのだ。ヘテロトピア、「異他なる反場所」を立ち位置にすることで、人の精神はどんなに遠くまで行くことだろう。本書は、沖縄の本土復帰反対闘争、金嬉老にパヴェーゼ、サイードをはじめとする思想家たち、そして日本でほとんど知られていない本まで、ヘテロトピアに立つ著者がヘテロトピアに立つ人々および営為を記述した通信である。

たとえば監獄という「きわめつけのヘテロトピア」から未来のマルチチュードの運動を構想したネグリ。加速するグローバリゼーションに抗してナショナリズムと紙一重になる危険をはらみつつ「批判的地域主義」に定位しようとするスピヴァク。
ギンズブルグが『夜の歴史』で提示した、イタリアの魔女裁判の被告たちとシベリアのシャマンとがどちらも恍惚状態に入る点で類似しているのは、古代にスキタイ民族がユーラシア大陸の西と東をつないで媒介したからという説は、まさに歴史学のヘテロトピアからの雄飛ではなかったか。

異端裁判で罪に問われた「ベナンダンテたち」は、夜の集会(サバト)でウイキョウの枝を武器にして魔法使いたちと戦ったと自白したという。このギンズブルグの記述に導かれ、編集作業もたけなわの頃、イタリア語で「旗」を意味する都内のレストランに杖をついてお出かけくださった上村先生と「ウイキョウとイワシのパスタ」を食べた。サルディーニャ島ではありふれた料理であるという。ウイキョウもイタリアでは雑草のように生えているのだろう。
魔女とされた女性たちも、読書体験から農民ラディカリズムの世界観をつくりだし焚刑に処された16世紀の粉挽きメノッキオ(『チーズとうじ虫』)も、当時のヘテロトピアに立っていたのかもしれない。
そうだ、ヘテロトピアはどこにでもある。




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