みすず書房

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ローザ・ルクセンブルク『獄中からの手紙』

ゾフィー・リープクネヒトへ 《大人の本棚》 大島かおり編訳 [19日刊]

「これらの獄中書簡を書いたときのローザは、社会民主党をもまきこんで戦争遂行のための挙国一致態勢をめざすドイツ帝国政府がなんとしても沈黙させておかねばならない危険分子として、「公共の治安」のための保護拘禁というかたちで投獄されていました。その2年まえの1914年には、彼女は前年の反戦演説のせいで1年の禁固刑の判決を受け翌15年に入獄、16年2月に釈放となりましたが、その5か月後の今回の入獄は、裁判ぬきの、行政権限による措置です。保護拘禁では獄内での個人的自由は多少認められていたものの、法律上は3か月と定められている拘禁期間は、拘留命令を繰りかえし更新することでいくらでも延長できました。外界との接触はもちろん制限されて、面会は月に一回、当局の許可した者一名だけ、手紙を出せるのは月に2通だけ、すべては検閲されましたが、それでもローザの手紙や文書は監視の目をくぐって運びだされましたし、この書簡集にも、秘密のルートで届けられたとおぼしき手紙があります。

しかし当局の検閲と監視は度外視できない以上、これらの手紙は政治的な問題には触れず、ごく個人的な私信のかたちをとっていますし、それに相手に心配をかけまいとしてでしょう、たとえば自分の病気についての言及はわずかしかありません。ローザはじっさいにはかなり病弱で、これまでも胃潰瘍、貧血、肝臓障碍などでたびたび倒れています。にもかかわらず「両端の燃える蝋燭のように」生きてきた彼女の健康は獄中生活で確実に蝕まれて、1918年晩秋についに自由の身となって再び闘争の場に復帰したとき、眼ばかりは輝いていたものの、黒髪は白くなり老いて病み疲れたその姿に、同志たちは愕然とし不安を抱いたと伝えられています」
(「はじめに」より)

1918年10月18日にゾフィーに宛てて手紙を投函した三週間後の11月8日の午後、ローザ・ルクセンブルクは釈放された。おりしもドイツ革命の嵐が全土に吹き荒れ、翌9日には、ローザはブレスラウ中央広場の市役所バルコニーから大群衆をまえに演説をおこなう。それからの日々、彼女はゾフィーの夫カール・リープクネヒトとともにスパルタクス団を再編し、機関紙Die Rote Fahne(『赤旗』)編集長として健筆をふるい、12月から1919年1月1日のドイツ共産党創設にあたってその中心メンバーとして活動した。それから二週間後の1919年1月15日、ベルリンでの争乱のさなか、ローザはカールともども、反革命軍によって虐殺された。出所してからふた月余のことであった。「来年の春はいっしょに愉しめることでしょう」とゾフィーに語ったことばは実現しなかった。



ローザ・ルクセンブルク 1871-1919


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