みすず書房

アーレント『反ユダヤ主義』『アイヒマン論争』

ユダヤ論集[全2巻]  コーン/フェルドマン編 山田正行・大島かおり・矢野久美子・齋藤純一・佐藤紀子・金慧訳

2013.09.26

今年は『イェルサレムのアイヒマン』原書刊行から50年目にあたる。

ということに気づいたのは、本書の再校が出揃って校正刷りと格闘しはじめていた6月初め、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の映画『ハンナ・アーレント』の初試写をみて、関係者と話し合っていたときのことだ。
アイヒマン裁判を取材したアーレントは、膨大な資料を読みこみながら、考えに考え、理解し、判断し、「イェルサレムのアイヒマン」を『ニューヨーカー』に寄稿、ついで単行本を刊行するのだが、それを読んだユダヤ人を中心とした読者からとんでもないバッシングを受ける。その問題は長く尾をひき、現在にいたっている。その様子を生き生きと描いて問題を提起した映画『ハンナ・アーレント』は、昨年の東京国際映画祭で高く評価されたのにはじまり、今年になってドイツ、フランス、アメリカなどで公開、すこぶる評判がよい。ドイツでは今年のドイツ映画賞、バイエルン映画賞で主演女優賞なども受賞している。
しかし、50年ほど前のアイヒマン裁判と『イェルサレムのアイヒマン』ドイツ語版刊行のときと同様、ナチを生んだ国ドイツでの受け止め方と、ホロコーストを逃れてアメリカに渡ったユダヤ人の子孫の多いアメリカでの見方は、また別ものだろう。映画関係者もふくめユダヤ人の多いアメリカで、この映画をめぐりどういう議論が出ているのか。たんなる映画評にはとどまらないだろう。アーレントの提起した問題は、それほど根が深いのだ。(この映画をめぐるドイツでの議論については『みすず』8・9月号で二回にわたり掲載された野口雅弘「ボン便り」をぜひ読んでください。また映画『ハンナ・アーレント』は10月26日より岩波ホールほか、全国順次ロードショーの予定です。)

本書に戻る。ご存知のように、1924年にマールブルク大学でハイデガーに、1925年にフライブルク大学でフッサールに、1926年にはハイデルベルク大学でヤスパースに師事したアーレントは、ヤスパースの指導のもとに1928年に学位論文『アウグスティヌスの愛の概念』を提出し、翌年には出版する。当時、アーレントがみずからの将来像をどのように思い描いていたのかはわからない。しかし、ユダヤ人として生まれ、ナチズムの時代を生きた彼女は、たんなる哲学者ではなく、自覚的パーリアとしての自身の存在にもとづく政治哲学者としてその後を生きることになる。本書を読めば、その経緯とアーレントの思想の根っこがよくわかるだろう。

1933年7月、アーレントはベルリンで、シオニストではなかったがシオニスト組織とともにはたらいていた廉で逮捕され、それをきっかけにパリに亡命、1941年にニューヨークに向かうまでパリで活動する。ユダヤ人であることはそれまでになく「自分自身の問題になったのです。そしてわたし自身の問題は政治的でした。まったく政治的な問題だったのです!」とのちに彼女は回想している。第1巻の中心をなす試論「反ユダヤ主義」はその当時、1930年代の最後の年から1940年に南フランスの「敵性外国人」用収容所に抑留されるまで書き連ねられる。ユダヤ人迫害および反ユダヤ主義の本質を膨大な文献から歴史的に考察したもので、収容所抑留により未完に終わるものの、歴史を読み解く彼女のスタイルはこの時期に確立された。1巻のもうひとつの中心となる『アウフバウ』記事の各編は、アメリカ亡命後、ニューヨークで発行されていたドイツ語圏出身のユダヤ人向けのドイツ語新聞に1941年から45年まで、ユダヤ人問題を中心にナチズムの実際やパレスチナ問題の現状分析を書き綴ったものだ。情況に対するアーレントの鋭い思考はこの時期に鍛えられる。

2巻の前半部分をなす「われら難民」「パーリアとしてのユダヤ人」「シュテファン・ツヴァイク」「シオニズム再考」「ユダヤ人の郷土を救うために」などの各編もほぼ同時期に執筆されている。これらによって、アーレントは1920年代に培われた哲学的緻密さを背景に、みずからの存在を問いながら、歴史的・政治的・情況的思考をわがものとしていく。そこから、ハンナ・アーレントという個性が生んだ50年代の著作群、『全体主義の起原』(1951)『人間の条件』(1958)『ラーエル・ファルンハーゲン』(1959)が誕生する。

2巻の後半をなす60年代の作品はほぼすべて『イェルサレムのアイヒマン』(1963)刊行後のバッシングに応えるかたちのものだ。本書に収録した1930年代の試論から順に読んでいけば、『アイヒマン』刊行後にアーレントが書き、語る一語一語の意味のいくばくかがスムーズに心に入ってくるだろう。

ちなみに、本書のジャケットに使ったアーレントの写真は大バッシングのさなか、1963年に撮影されたものである。なんという風格、なんという余裕!

トロッタ監督『ハンナ・アーレント』 10月26日より全国順次ロードショー

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マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の映画『ハンナ・アーレント』は、2013年10月26日(土)より東京・神田神保町の岩波ホールほか全国順次公開予定です(配給:セテラ・インターナショナル)。