みすず書房

関口すみ子『良妻賢母主義から外れた人々』

湘煙・らいてう・漱石

2014.06.26

「良妻賢母」は明治期につくられた新しい女性像でした。日本が急速に近代化した時期、女性のあるべき姿を「妻・母」と規定したのはなぜなのでしょうか。

明治の初めは、文明開化の時代。女子に中高等教育の門戸が開かれました。官立の女学校が開校し、それまで男子の正装だった袴の着用が認められます。ところが女学生の袴姿は世間に衝撃を与え、たちまちバッシングの的となりました。同時に、漢文・洋学という「男の領域」に女子が参入することへの轟々たる非難が巻き起こります。

明治中期、男女別学の原則を明記した教育令を機に、女子に高等教育は不要とされ、「修身・国語・裁縫」を中心とする「良妻賢母教育」が女子教育の要となりました。時は国会開設に向かう時期。国民国家の成立期に、文明開化の象徴だった女子教育は「良妻賢母」をつくるための教育へと組み直されていくのです。 この時期、良妻賢母主義をはるかに外れた女性が登場します。「演説する女」として名高い湘煙(しょうえん)・岸田俊子です。

開校されたばかりの男女共学の小学校で「俊秀の子女」として評判になった俊子は、推挙されて昭憲皇后に漢文を教えることになります。ところが宮中を辞して1年後、政談演説会で「婦女ノ道」を演説し、大評判となります。このとき俊子は20歳。演説会には2000人が詰めかけて騒然となり、俊子は明眸皓歯の驚くべき「奇婦人」と報道されました。

俊子は各地で演説し、若い女性たちに多大な影響を与えますが、演説「函入娘」(はこいりむすめ)で逮捕され、有罪判決を受けます。その後はフェリス女学校などで女子教育に力を注ぎ、『女学雑誌』等で評論や小説を発表しました。

俊子の活躍は、つねに激しい非難と隣り合わせでした。初の演説の直後には「らしうせよ」と題した投書が新聞に載り、初めて発表した小説は文芸誌で酷評されます。演説・高等教育・漢学・小説……俊子は「男の領域」に次々と乗り込み、そのたびに称賛と非難を浴びました。

社会が大きく変動するとき、重要なファクターとなるのがジェンダー規範です。本書は、岸田俊子、平塚らいてう、夏目漱石という既存の規範にしばられずに新たな女性像を創りだした人々に焦点を当て、近代日本と「良妻賢母主義」というジェンダー規範が連動していく様を解き明かします。