みすず書房

H・ハルトゥーニアン『アメリカ〈帝国〉の現在』

イデオロギーの守護者たち 平野克弥訳

2014.06.26

著者ハルトゥーニアンは、日本の近世史・近代史の専門家だ。なぜ今回、アメリカ合衆国を真正面から取り上げたのだろう? これまでの著書のテーマはいずれも日本――『近代による超克:戦間期日本の歴史・文化・共同体』(岩波書店)、『歴史と記憶の抗争:「戦後日本」の現在』(小社)、『歴史の不穏:近代、文化的実践、日常生活という問題』(こぶし書房)。さらに、なぜ著者はそもそも、日本近代を研究することになったのかという疑問も、あらためて湧くかもしれない。

理由はおそらく単純ではないが、その解の一端は本書にも説得的に展開されている。そして著者の出自と生い立ちも、この疑問に無関係ではなさそうだ。

『歴史の不穏』の韓国語版のためのインタビューで、著者は自分が、20世紀初頭のアルメニア大虐殺を逃れ、アメリカに移民した両親の息子であると語っている。父親は、子供が12人いた家族の唯一の生き残りで、一方母親は、十代の頃に彼女の母親とシリア砂漠に逃れ、そこで暮らす部族に助けられてベイルートに辿り着いたという。さらに、著者がアメリカで学校に行くようになると、出自に関係なく、誰もがアメリカ人になることを強いられた(同化政策)。民族的な背景は、意識したり強調したりしないように仕向けられた。

東アジアにはなんの知識もなかったのに、日本を研究対象にしたのは、そうすれば自分の出自の問題も、アメリカの同化政策も気にしなくて済んだことがひとつ。しかも冷戦がはじまって、両陣営がアジアの国ぐにを取り込もうと画策するようになると、アジアを専門にすることは、新しい知的・専門的な職業――教職につくか政府機関に就職する――を約束されることだった。

こうして生まれた学問分野は、その後「地域研究」に成長し、近代化論を柱にして、アメリカの国策と密接な関係を維持することになる。そのひとつともいえるアメリカの日本学に、ハルトゥーニアンは一貫して批判的だ。では、現在アメリカが強力に推し進める「新自由主義」という資本主義と、それと不可分の「衣替えした」近代化論の登場を、ハルトゥーニアンはどう分析するだろうか。

著者にとって戦争、内戦、虐殺は、当然つねに他人事ではなく、人一倍つよい関心を持ちつづけたにちがいない。そしてベトナム戦争の頃になると徐々に、自分には、他国民の歴史を研究する理由がないのではないか、と考えはじめる。しかも、たとえば日本の歴史を、日本人自身ほど十全に理解できるはずはない、という思いも強くなる(ただし、日本人が日本人を特別と考える、いわゆる「日本人論」は別の問題で、本書にも言及されている)。「理解するとは、あるがままを受け入れること――その当事者である国民にしてはじめて可能な、共感に裏打ちされた歴史の分析があるはずだ。わたしはすでに、自分の民族のことでじゅうぶん困難をかかえている」。こうして、著者はときどき言うようになった――私は日本の歴史を対象にしてきたが、歴史学者であって、日本学者ではない。

冷戦がおわり、「対テロ戦争」と銘打ったイラク戦争が始まるのは2003年。著者はアメリカによる攻撃につよい衝撃をうけ、本書を書きあげた。原書の刊行は2004年。それから10年になるが、世界の構図は基本的には変わらない。