みすず書房

五島綾子『〈科学ブーム〉の構造』

科学技術が神話を生みだすとき

2014.07.09

STAP細胞関連の騒動では、研究の進め方、研究者の人事、論文発表の作法などのデタラメさにも単純に驚かされたが、なんといっても「あの理研から、あんなに大きくぶちあげた成果について」ずさんな実態が出てきたという状況が、各方面へのショックを何倍にも増幅したと思う。理研の最初の記者会見では、有用な万能細胞の作成をまるで魔法のように劇的に簡単にしたというイメージが、「オレンジジュース程度の酸性溶液に漬けるだけ」といった表現で、事実に反して打ち出されていた。それは、この7月刊行の五島綾子『〈科学ブーム〉の構造──科学技術が神話を生みだすとき』でも再三例示されている、“奇跡の”科学技術という「神話」を仕掛けようとする構図そのものだ。しかも研究当事者が女性であることが広報のインパクトを高めることも、十分に意識されていたように見えた。

理研のように優れた研究者・プロジェクトを多数抱えた組織が、なぜ低俗な部類の社会的関心を煽る必要に駆られるのか。ここはみすず書房の新刊に関連するトピックを提示する場なので、新刊の『〈科学ブーム〉の構造』が展開している議論をふまえながら、STAP細胞騒動であらためて提起された研究の広報と社会的評価の問題について、市民の立場からの疑問を一つ、提起しておきたいと思う。

『〈科学ブーム〉の構造』では、事例研究の対象の一つとして90年代~2000年代のナノテクノロジー・ブームをとりあげている。本書によれば、同じナノテクのブーム/神話を仕掛けるにしても、アメリカと日本ではやり方が違っていた。大ざっぱに言えば、アメリカ流はよくも悪くも国家から市民までが大っぴらにブームに乗るような仕掛け方である。それに対して日本では、経産省・文科省といった省庁がナノテクノロジー推進の枠組みをつくり、予算をとってきて主要な研究機関を選んで重点配分することでブームを仕掛けるのだが、そのスキーム全体がほぼ官僚と一部の研究機関の間だけで完結していて、(直接利害に絡む産業界・投資家とメディアへは副次的な影響が及ぶものの)かやの外の市民は知識もなく、おおむね無関心にとどまった。そのため巷では、ナノテクノロジーの本質とはほとんど関連なしに「ナノ」を銘打った商品が氾濫するという、空虚なブームが起きた。

こうした日本の科学技術政策の仕掛けやその幕引きの不透明さ・不合理さへの批判はそれ以前からあって、90年代以降に競争的な研究助成のチャンネルが増やされ、2000年代に入ってから国立大学や省庁所管の研究所が独法化されたのも、研究資金獲得・運用の自由化や配分の透明化を名目の一つにうたってのことだった。改革の流れにともない、各研究機関に対して研究成果を社会にアピールせよというプレッシャーが増したのは、ある程度までは必然だろう。そこまでは『〈科学ブーム〉の構造』がとりあげている事例からもうかがえる。ただ、研究機関はその改革以降、どう変わりつつあるのか。今回の理研の一件は悪い予兆のようにも映る。STAP細胞についての最初の記者会見では、研究成果の広報が、なにやらよからぬ部類の大衆迎合になってしまっている(!)。

科学研究については、十分に透明で合理的な評価システムの中で、評価能力をもつ専門家集団が公正に研究評価をおこなってくれれば、私たち市民もそれを冷静に受けとめて、そこから市民目線を入れた然るべき社会的評価を形成できるはずである。たとえて言えば、日本の科学政策がiPS細胞と新種の万能細胞のどちらにより重きを置くかを、私たち“衆愚”(あえてこう書きます)の関心度が左右するようなナンセンスな“透明化”は、私たちも含め誰も求めていない。それなのに、いったい科学の研究組織が誰のために今回あんな演出までして社会的な関心を強引に打ち上げようとしたのか。そのことは、きっと笹井氏や小保方氏個人の資質のみに帰すべきものではなく、今回のような事件が理研というハイプロファイルの組織で起きた理由とも直結しているかもしれない。

科学研究の本来の評価に即して大規模な助成を仕掛けるには、それを支える社会的基盤が、研究者コミュニティの内にも外にも要るのではないだろうか。その基盤がもともと脆弱な日本で、研究組織の独法化などにより競争原理だけを取り入れてきて、いま科学研究の社会的評価をめぐる研究者サイド・科学技術行政サイドの価値観そのものが、なにか俗悪な方向に歪みはじめていないかと案じるのは、現場を知らない素人の杞憂だろうか。

(編集部 市原)