みすず書房

トビー・ドッジ『イラク戦争は民主主義をもたらしたのか』

山岡由美訳 山尾大解説

2014.07.10

6月10日、スンナ派のイスラーム主義過激派集団「イラクとシャームのイスラーム国家」(ISIS)がイラク北部のモスルを掌握したというニュースは、本書の校了を間近に控えていた筆者にとって寝耳に水だったが、多くの人にとっても同様だったろう。ISISは今年初めすでにイラク西部の一部を制圧していたが、そこはスンナ派が多数を占める地域で、シーア派中心の政府への抵抗がもともと強い。しかし今度はイラク第二の都市モスルを掌握し、バグダードに向けて進攻しているという。その後ISISは「イスラーム国家」(IS)と改名しカリフ制政体の樹立を宣言、7月4日にはその指導者アブー・バクル・バグダーディーを撮影したとされる初めての映像がネット上に流れた。アフガニスタンの奥地ではなく中東地域と油田地域の真ん中にカリフ制政体を樹立することは、9・11の首謀者とされるオサマ・ビン・ラーディンがしばしば語った夢だった。その衣鉢をアブー・バクル・バグダーディーが継いだ格好になる。

ISISにモスル制圧をあっさりと許したイラク国軍を支援するためアメリカは空爆を検討中だが、すでにアフガニスタンとイラクで6000人という戦死者を出しており、国内には厭戦気分が広がっている。今届いた7月5日付けフランス『ルモンド』紙の一面トップには、「ロシア‐イラン‐アメリカ、イラク防衛のための奇妙な連合」という見出しが躍る。介入はあっても限定的、というアメリカに対して、ロシアとイランが軍事的援助を申し出たらしい。今後どう展開していくのか。それにしても、ISISがこれほどの力を得たのはなぜなのか、イラク正規軍はなぜかくも弱かったのか、アメリカが介入を迷うのはなぜなのか、国連はなぜ動かないのか――。

こうした疑問に答えるには、アメリカの占領政策がどのように行われ、イラクの政治の現場で何が起こっていたのかを知る必要がある。双方とも、イラクに民主主義を構築することを目指していたはずだ。しかし実際はどうだったのか。戦後イラクでは数多くの政党が誕生し多数派形成のために連合を繰り返したが、状況に応じて極めて短期間にそれが再編されてきたため非常に複雑で分かりにくい。それに加えて、社会状況や中東の近隣諸国との新しい関係までを頭の中できれいに整理するのは、日々の報道を追っているだけでは難しい。信頼できる専門家が、わかりやすくコンパクトにまとめた本が欲しい。そのような需要に応えているのが、本書『イラク戦争は民主主義をもたらしたのか』である。

本書が描き出すイラクは、アメリカの意図をはるかに超えた地点に行きついてしまっている。これが根拠なき戦争がもたらした当面の結果であるなら、恐ろしい齟齬としか言いようがない。イギリス『エコノミスト』誌はこれを「シェイクスピア劇に匹敵する」と表現している。淡々と冷静な筆致から浮かぶそのドラマは、もっぱら自己の利益の最大化に勤しむ無数の個人の営み、という人間臭いドラマでもある。

思えばイラク戦争は、戦争という選択肢があり、なんとしてもそれを実行したい勢力がいたために起きたように思える。開戦の正当化はそのための方便である。しかしこうした判断は、手段としての武力がなしうることを根本的に誤解しているのではないだろうか。「シビリアンの暴走」である。我々の目的は戦争によっては達成されなかった。歴史上の他の多くの戦争もそうである。本書を読むとそのことが改めて実感される。第一次世界大戦から100年、ノルマンディー上陸作戦から70年、そして日本で集団的自衛権行使が閣議決定された今年、「我々の時代の戦争」であるイラク戦争を真剣に検証することを提案したい。