みすず書房

酒井啓子『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』

2016.01.12

酒井啓子先生といえば、2003年のイラク戦争開戦の頃、連日のようにテレビで情勢の解説やコメントをしていた姿をご記憶の方が多いだろう。筆者の目には、論理的かつ冷静沈着という点で群を抜いているように見えた。思えば当時は、テレビを見ても論壇誌をめくっても井戸端でも、イラクをめぐって喧々諤々だった。それが、一応の戦闘終結宣言がなされ局面が復興へシフトし、やがて内戦にいたるにつれ急速に下火に。ブッシュ政権がかかげた開戦理由である大量破壊兵器は結局なく、アメリカの占領統治計画があまりにも杜撰だったことが明らかになり、政権が2009年にブッシュからオバマへ移る頃には、開戦を先導した国々にとっても、日本のように支持した国々にとっても、すっかり「忘れたい過去」となってしまった。今頃、ブッシュ元大統領はテキサスの自邸でどんな暮らしをしているのだろうか、という疑問がふと頭をよぎる。民間人だけでも10万人規模の死者が出た。中東を悪夢に陥れ世界を振り回している「イスラーム国」は、イラク戦争の落とし子とも言われる。

その「イスラーム国」の衝撃によって中東への関心は一気に復活した。その間、もちろん中東の情勢は大きく推移していたわけだが、私たち普通の生活者があらゆる時事問題をフォローし続けるのは難しい。慌てて解説を求め、何かが分かった気になる。しかし、ブームが去れば忘れるだけなのだろうか。そしてまた新しい事件が起きて驚愕する――それは「新しい」のではなく、前の事件の続きであり、自分はまさにその同時代を生きていたにもかかわらず。本書を読んでしばしば思い知らされたのが、まだ体温の残る近過去を人がいかに忘れやすいか、ということだった。

「『歴史を忘却すること、または誤った解釈をすることは国家を建設するときの主たる原理の一つである。そしてそれが、歴史学の進歩が常にナショナリズムにとっての脅威となる理由である』[エルネスト・ルナン]。私は、近代の歴史家の主たる責務はこのような脅威になることだと認識している」。(エリック・ホブズボーム『破断の時代』慶応義塾大学出版会)

本書『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』はもちろん「近代の歴史家」の著作ではないし、「このような脅威になる」ことを目指したものでもない。ともに変遷してゆく中東と日本の社会を中東研究者の目で追った時評集であり、著者は地域研究の意義についてとても慎ましく触れておられる(4章)。しかし、ホブズボームのこの一節がふと思い出されるような、「時評集」という字面以上の読み応えのある本でもあった。他にいい呼び方はないものだろうか。小社の若手営業部員から「知識人の仕事」に賛成票が投じられたときは嬉しかった。結局、著者の謙虚さに倣って控えめな言葉遣いにとどめたが、もっと大きな声で叫んだ方がもっと多くの読者に届いたのだろうか――。様々な意味で試行錯誤を重ねて、送り出した1冊となった。本書のありようを上手く伝え、手に取ってもらえる本造りができただろうか。首を洗いたくなるような気持ちで、読者のみなさんの反応をお待ちしている。