みすず書房

G・グレッグ『ルシアン・フロイドとの朝食』

描かれた人生 小山太一・宮本朋子訳

2016.01.13

「現代美術」という区分を無視するかのように、ひたすら真正の具象、というより人物画を描きつづけたルシアン・フロイド。現代絵画の巨匠とみなされ、晩年はオークションの最高落札額を更新し、現代アート界のトップスターに昇りつめた。2011年88歳で没すると、その死を悼んで亡命の国イギリスではナショナル・ポートレイト・ギャラリーで大回顧展が開かれた。世界的な名声の一方で、いまだ日本では一般にその名と絵はあまり馴染みがない。
欧米のアートシーンでは50年代にすでに天才的な画才が高い評価を得ていたから、日本でも70年代になると、イギリス絵画の紹介に力を注ぐ銀座の画商・西村画廊で展示がなされ、90年代には栃木県立美術館―西宮市大谷美術館-世田谷美術館を巡回する展覧会も開かれている。だが2011年にその死が知らされた時でさえ、日本でフロイドを悼む声はあまり聞かれなかった。彼がカンバスの上に絵の具を塗りこめて描き出す人間からにじみ出る「えぐみ」のようなもの――醜さ、病い、孤独、苦悩を抱える人間の姿をあえてまなざす者には自我の強度が問われる。

日本では歓迎され難いルシアン・フロイドの作品の背景をさぐるような、彼の生涯をたどる本を世に出そうとした時、企画者である私を励ましたのは、帯に言葉を引用させていただいた彫刻家・舟越桂さんがフロイドの熱烈な支持者だということだった。アトリエでフロイドの話を聞かせてくださった舟越さんは、棚からぶ厚い画集を一冊一冊大事そうに取り出しながら、初めてフロイドの絵を見たときの、その目の前にあるものの輝き、心の躍動を、一語一語言葉を選びながら再現するように話してくださった――
「(1986-7年にロンドンに滞在していた時ナショナル・ポートレイト・ギャラリーで見たフロイドは)薄い塗り方の時代、ほんとうに美しかったですね。描かれていたのは男の人でしたけど、顔が美しいとか色が美しいんじゃなくて、なんだろう、美しいことをした痕跡が残っているような感じで。現実の人が眼の前にいて動かないで僕のためにポーズしてくれているような、そういう錯覚を起こすような感じの絵でしたね。人体を把握するとか人間の魂を描き出すとかいうことよりも、人間そのものが眼の前にいるような、しかも普通だったら僕が恥ずかしくなったり向こうが恥ずかしくなったり表情が変わる訳ですけど、絵だからそれを起こさずにいられる訳です。なんか不思議な感覚でしたね。それからはもう、すごいファンになって、つい最近まで生きてるアーティストのなかでは、僕のなかではトップスターというか一番大きい存在でした。」

美しくない肖像を描く男と噂されたフロイドがどれだけモデル―人間―に思いを注いでいたか。それは、彼が自分の絵画について、唯一書き残した文章「描くことについてのいくつかの考え」(1954)を読んでもらえれば分かる。
「画家を仕事に駆り立てるものは、対象に対するオブセッションを措いて他にない。人々が芸術作品の創造へと駆り立てられるのは、創造がなされるプロセスに慣れ親しんでいるからではなく、自分が選んだ事物に関する感情を他人に伝えることが必要だからである。そうした感情は、他人に感染するほどの濃密さで伝えられなければならない。同時に描き手は、対象からある程度の感情的距離を置き、対象そのものが話し出すようにさせてやる必要がある。描くという行為の最中に対象への熱い思いが描き手を圧倒してしまっては、対象の生命が窒息させられかねないからだ。」([資料]として本書巻末に収録)

ルシアン・フロイドの作品は生で見なくてはならない。日本で回顧展が開かれる日がおとずれることを強く願う。

(編集担当 小川純子)