みすず書房

あらためて自分が自然に取捨選択していたものが見えてきた (はじめに)

林もも子『精神分析再考――アタッチメント理論とクライエント中心療法の経験から』

2017.05.10

はじめに

林もも子

精神分析という言葉は、やっかいである。精神が分析などできるものか、とうさんくさく思う人。精神は分析できるものだったのかと好奇心や野心を持つ人。精神を分析されてしまうのか、と恐れを抱く人。精神を分析してみたいとわくわくする人など、さまざまな反応を引き起こす。

精神分析の創始者であるジグムント・フロイトは野心家だった。人間の精神を分析する学問を打ち建て、人間についての知識を無意識の広大な領域に拡大深化させる道筋をつけたと自負していた。
今日の日本では、精神分析の評価は二分されているように見える。片方には精神分析は時代遅れで間違いだらけで非科学的なものだ、と軽蔑のまなざしを向ける、あるいは無視する人々がいて、片方には精神分析は時代の先端を行く、進化しつづける複雑で高級な学問である、と夢中になったり憧れたりする人々がいる。

筆者は、クライエント中心療法の訓練を受けて心理療法家としての道を歩みはじめ、やがて精神分析に魅了されて訓練を受けたが、アタッチメント理論やミームという概念と出会って精神分析を見直すようになった。筆者がクライエント中心療法の立場で治療を続けて行き詰まりを感じたのは、素手で勝負することの限界を感じたようなものであり、自分の修行の足りなさゆえである。そこでさらに修行を積めば別の道がひらけたのかもしれない。ともあれ、当時の筆者にとって、精神分析学の差し出す無意識や転移や防衛などの概念は、人格障害や複雑な歴史を背負ったクライエントを理解し、治療をしていくのに非常に有用で魅力的な道具と感じられた。事実、それらは今も筆者にとって大切な目となり手足となっている。

アタッチメント理論というのは、動物の一種としてのヒトが生まれながらに持つ他者と絆を作ることに関する理論である。人は何らかの強いストレスにさらされて不安になったり恐れを感じたりしたときに、自分を保護し世話をしてくれるだろうと思われるような人に近づき、安心な状態を取り戻そうとする行動のシステムを生まれながらに持っていて、それをアタッチメント・システムと呼ぶ。
筆者は、アタッチメント理論に出会い、人が人を援助する過程には援助者が専門家であるか否かに関わらず、そういう自然なやりとりの中ではぐくまれる絆の土台があるのだということに改めて気づかされた。改めて、というのは、本来、クライエント中心療法は、誰もが持ちうる他者の力を引き出す態度や行動を援助の基本に据えた理論だったからであり、そこに回帰したとも言える。そして、精神分析を学ぶ中で、治療者は何か特別なことをする人間だという思い込みに暗にとらわれはじめ、不自由になりつつあった自分が、動物としてのあたりまえの行動であるアタッチメントに目を向けることで、憑き物が落ちていくような経験をした。もちろん、憑き物をしょいこんだのは筆者の勝手な思い込みの結果であり、精神分析学が憑き物的な性質を持っているわけではない。

また、ミームという「文化的遺伝子」としての思想や概念のとらえ方を知り、遺伝子の乗り物としての人間、という視点を持つことで、人間の考えなんてたかが知れていると実感して楽になった。それまでの筆者は「正しい」理論、「真実」がどこかにあるはずだと思い、それを探していたのかもしれない。ミームの視点から見れば自分はしょせん自分だと思うと、改めて精神分析の数々の理論や概念の中で、また臨床経験の中で自分が自然に取捨選択していたものが見えてきた。

そして、精神分析の諸概念についての自分の取捨選択が徐々に明確になってくるにつれて、じれったさのようなものを感じるようになってきた。精神分析の一部分である、あまりにも古くなった概念のために、精神分析全体が否定され、使える部分までが切り捨てられたり無視されたりすることがあるという状況に対してである。深い味わいのある料理を作るには、削り器で削った削りたての鰹節と昆布とで出汁をとる方法が、面倒でも古くても必要だと思われる。それが多くの台所で忘れられつつあることへのじれったさのようなものである。
一方で、精神分析を学ぼうとしても、精神分析の理論の発展はあまりにも多岐にわたり、それぞれが険しい山のように見えるために、入り口で足踏みをする人も多いように見える。精神分析の諸理論が難解に感じられるのは、一つには、訳本の翻訳の問題のためという場合もあるではないかと密かに思っているが、先人の努力に文句を言ってはいけないとも思う。

ともあれ、古い熟成したチーズのような精神分析を、いささかカビの生えてしまった部分は取り除いて、食べられるおいしい部分が見えるようにし、心理療法を学び始めたばかりの人にも食べやすい形で提供できないだろうか、と考えたのがこの本の執筆のきっかけだった。とはいえ、筆者は精神分析の世界では裾野をうろちょろしただけで離れてしまった人間である。

ここで精神分析と精神分析的精神療法の違いを述べておかなくてはならない。精神分析は週4回~5回、一回45~50分、カウチを使用し、自由連想法による治療を行うものである。一方、週1~3回の自由連想法による治療が精神分析的精神療法である。「精神分析」は週四回以上のセッションを寝椅子で行うという方法論と臨床的事実から生まれた理論なので、それ以外の方法で行われたものについてその理論を用いて論じることは原理的に無理があると主張する人もいる。筆者は精神分析の理論がそこまで閉じたものだとは考えない。本書では精神分析的精神療法の訓練および実践経験を経て、今は精神分析学のサークルから離れた立場から精神分析学について論じている。

おこがましいと叱られることを覚悟しつつ、離れているからこそ見える古い部分と使える部分の整理を自分なりにしてみようと思う。そして、心理療法を学びはじめたばかりの人たちに、精神分析のかなりの部分は使えるものだという実感を持っていただけたらうれしい。また、この本を批判する形で、いや、こっちこそが使えるものだ、これはやっぱり使えない、などの議論が起きれば望外の幸せである。

copyright HAYASHI Momoko 2017
(著者のご同意を得て転載しています)