みすず書房

好評、ヘラー=ローゼン『エコラリアス』 巻末「解説」よりウェブ転載

『エコラリアス――言語の忘却について』 関口涼子訳

2018.06.08

(巻末に付された周到な「解説」を以下に抜粋転載いたします)

解説(抄)
ダニエル・ヘラー=ローゼンとは何者か?

伊藤達也

(名古屋外国語大学教授)

本書の著者ダニエル・ヘラー=ローゼンは、現在米国プリンストン大学の比較文学部教授の職にあるが、英語圏ではなによりもまず、ジョルジョ・アガンベンの訳者として知られているのではないだろうか。実際ヘラー=ローゼンは『ポテンシャリティーズ』(編訳1999)、『ホモ・サケル』(英訳1998)、『詩の終わり』(英訳1999)、『アウシュヴィッツの残りのもの』(英訳2002)というアガンベンの代表作の英語への翻訳を通じ、世界的な「イタリアン・セオリー」ブームを牽引した人物である。アガンベン自身もヘラー=ローゼンに絶大な信頼を寄せ、現在に至るまで親子ほどの年齢差を超えた友人関係を維持している。『ポテンシャリティーズ』に収録された15篇の初期論文は、後にイタリアで出版されたLa potenza del pensiero: Saggi e conferenze (Vicenza: Neri Pozza, 2005)(『思考の潜勢力』)にも収録された。

しかし実際はこの仕事も、ヘラー=ローゼンの驚くべき学識のほんの一部を示すに過ぎなかった。1974年に、ポール・ローゼン(政治思想史家、フロイトの伝記作家)とデボラ・ヘラー=ローゼン(比較文学者、ヨーク大学教授)の間にカナダのトロントで生まれたダニエル・ヘラー=ローゼンは、北米とヨーロッパで文献学と哲学の教育を受け、西洋の古典語(ヘブライ語、古代ギリシャ語、ラテン語)を習得し、母語の英語に加え、イタリア語(幼少時に母親の研究に同行し、フィレンツェに数年滞在している)とフランス語(博士課程の際パリに留学している)とを母語同様に運用し、さらにはドイツ語、スペイン語、ロシア語、アラビア語に至るまで10カ国語に通じたポリグロットなのである。

博士号の取得後、アメリカの大学では、分析哲学以外を扱う哲学者は比較文学部に配属されるという伝統により、へラー=ローゼンはプリンストン大学の比較文学部で教えることになる。そして2005年、彼は初めての単著を出版する。それが『エコラリアス――言語の忘却について』である。

「エコラリアス」とは、「エコー(反響)」+「ラリア(話)」の複数形で「反響言語」の意だが、本書では言語獲得以前に幼児が発する喃語反復、他者の言葉の繰り返し、死語の残存など、かなり広い意味で用いられる。本書を構成する21の章は、医学、文学、言語学、哲学、宗教学など様々なテクストの読みを通じて、一つの大きな寓話を幾重にも変奏する。その寓話とは、言語を忘却することで人は言語を獲得し、そのようにして獲得された言語は他の言語の痕跡を谺(こだま)として残存させるというものである。いくつかの名前を挙げれば、ヤコブソン、トルベツコイ、カネッティ、カフカ、ハイネ、ツヴェターエワ、ブロツキー、アブー・ヌワース、ドゥルーズ、ルイス・ウルフソン、チョムスキー、スピノザ、デイヴィッド・クリスタル、ジャン=クロード・ミルネール、ベンヤミンなどのテクストの精密な読みにより、近代以降の言語に対する概念は覆されてゆく。本書の手法はデリダ的脱構築とフーコー的アルケオロジーを同時に継承しながら、アメリカ的な節度をも兼ね備えており、過去の認識上の誤りを糾弾するというよりもむしろ、もう一つの認識上の可能性の系譜を提案することに主眼がおかれている。事実彼の主張は多くの言語学の専門家からも好意的に迎えられており、実際私もこの本をフランスの言語学者にすすめられて読んだのであるが、驚くべきことに、哲学者ヘラー=ローゼンは言語学についても極めて正確な知識を持っており、彼の一世代前の哲学者たちにしばしば感じる、哲学者が言語学を扱う際の認識論的限界が全く感じられなかった。その様な時に強く感じられるのは、彼は明らかに新しい時代の哲学者、書き手だということである。

『エコラリアス』の発表後もヘラー=ローゼンはほぼ2年に1冊の割合で精力的に著作を発表し続けている。取り扱うテーマは毎回異なり、2018年現在で単著は6冊、大半がすでに世界中で翻訳されている。

彼の著作の特徴は、膨大な学識を背景に学問分野と言語を横断して選択された様々なテクストの精密な読みを通じ、西洋の古代や中世に由来するテーマを現代に甦らせること、あるいは逆に現代的なテーマで古典を照らしだすことにある。おびただしい数の言語や異なる時代のテクストが翻訳や引用を通じて著作の中に持ち込まれるスタイルは、最良の意味でのエッセイ的手法である。事実彼の著作は全てフランスではエッセイ、哲学、小説、詩などジャンルを問わず今日的な文学を扱うスイユ社の「21世紀の文学叢書」から出版されている。数人の天才的な学者が一人の中に存在しているかのような学識とエッセイストとしての表現能力を合わせ持つ人物として、ダニエル・ヘラー=ローゼンは現在世界で最も注目を浴びている哲学者の一人である。

copyright Ito Tatsuya 2018
(筆者のご同意を得て抜粋転載しています)