みすず書房

『いかにして日本の精神分析は始まったか』余話

2019.03.25

(著者からひとことをお寄せいただきました)

『いかにして日本の精神分析は始まったか――
草創期の5人の男と患者たち』余話

西 見奈子

歴史を調べることは死者に出会うことだ。彼らはもういない。想いを巡らすのみである。あとがきでも触れたように、今回の本は国立国会図書館関西館に通いながら書いた。行ったことがある人はどのくらいいるだろうか。京都のはずれの広大な敷地に、無機質な灰色のコンクリートと透明なガラスでできた近未来的な建物はある。ひと目見た時にこれは墓だなと思った。巨大で美しい墓だと思い、感激した。

ガラスの扉を開けると警備員がひとり立っている。軽く会釈をしてその脇を通り過ぎ、白く長い階段を駆け降りる。私はいつも焦っている。開室時間が限られているからだ。制限時間内でひとつでも多くの資料を目にしたい。うっかりつまずいたりしてはいけない。出来るだけスムーズに一連の動作を終えなければならない。そうした細心の注意を払いながら素早くボールペンとメモ帳と財布を取り出して指定のビニール袋に入れ、残りの荷物をロッカーに放り込んで鍵をかける。そして名前が記された水色のカードをゲートにかざし中に入る。ガラス張りの広い廊下には心地良さそうな大きなソファが置かれ、そこから見える中庭にはうっそうとした緑の木々が生い茂っているが、のんびりしている暇はない。それらを横目で見ながら足早に廊下を駆け抜けるとようやく閲覧室である。思ったよりも本が置かれていないことに多くの人は驚くことだろう。代わりにパソコンが規則正しく並んでいる。検索して目当ての本や雑誌を注文しカウンターで受け取るか、あるいは電子資料になっているものに目を通すのである。どこから本や雑誌が運ばれてくるのかは確かめたことはないが、私は地下深くから運ばれてくるのだと勝手に信じている。いつの間にか机の上に白い紙の束が積み上がっていく。そうやって集められた資料に私はせっせと目を通す。

せっかくだから本書では掲載できなかった資料を紹介することにしよう。例えば、1922年8月14日の日米新聞には「王府出身在京者でメリット会を組織した」という見出しの小さな記事の中に「矢部八重吉」の名前を見つけることができる。矢部八重吉は、日本で最初の精神分析家である。1922年7月20日に京橋のレストラン「鴻の巣」で王府出身者20人が集まって晩餐会が開かれ、矢部は世話役の常任幹事のひとりに決まったと書かれている。王府とはオークランド、すなわちカリフォルニア州のことである。彼は10代でアメリカに渡り、青年期をアメリカで過ごした。1922年といえば、矢部が帰国して鉄道省で心理学の実験をおこなっていた頃だ。彼は「鴻の巣」で何を食べたのだろうと私は考える。世話役になるくらいだからやはり人から信頼される人物だったのだろうかとも思う。白いクロスのかけられたテーブルを前にフォークとナイフを手に持ち、料理を口に運びながら談笑する彼の姿が思い浮かぶ。
お次は1930年12月12日の読売新聞。「一門五十二名と共に猿之助、市村座に籠る」という見出しの躍るページの下から二段目の隅、のほんの隅に小さな文字で「國際精神分析學會日本支部分析室」という広告が載っている。矢部の名前はないが、矢部が出した広告とみて間違いはないだろう。1930年、矢部は欧州に渡り、精神分析の訓練を受け、フロイトと面会した。そして帰国した彼は、日本で最初の国際的に認められた組織である「國際精神分析學會日本支部」を作ったのである。所々、文字が潰れて読めなくなっているが、病的不安、家庭不和、フロイド精神分析、泰明小学校前などの文字が読み取れる。
そういえば、後に日本最大の精神分析コミュニティとなる日本精神分析学会を創設した古澤平作も、開業して間もない頃に新聞に大きく取り上げられたことがあった。1933年5月9日の東京朝日新聞である。「三原山患者も根絶出来る」という大見出しとともに「古澤博士が日本で最初の精神分せき醫開業」と書かれている。三原山患者とは、当時、三原山の火口で友人が見守る中、女子学生が投身自殺を図るという事件をきっかけに、自殺志願者が三原山に殺到して多くの自殺者が出ていたことを指していると思われる。新聞にはこう書かれている。「近頃流行の三原山患者の如きも一種の精神病であるといふことが出来ますが、この精神分せき療法で治し得るものです。また従来肉體的にのみ考へられてゐた病気がこの方法と醫學を併用する事によって治る様になる事と思ひます。」精神分析に対する強い意気込みが伝わってくる。そう、この情熱である。私は彼らのこうした情熱を今回の本に記した。

けれども書き終えてから気づいたことがある。つい先日、木田恵子氏による次のような記述を目にする機会があった。1941年頃の古澤の日記に、自分の性質がサディシスティッシュ(原文ママ)であることが、自分としても、また被分析者にとっても大きい問題であるから、何とか菩薩のような心を持ちたいと書かれていた、というものである。優しくなろうとしてもなかなかうまくいかず、繰り返し努力をする様子が克明に記録されていたのだという。これを読んだ時、私は彼の孤独の深さに触れた気がした。本の中でも私は確かに古澤の「圧倒的な孤独」に言及したが、実際に彼が臨床実践の中でひとり奮闘していたことを知り、その感覚は実感を伴って私の心に迫ってきたのである。いや、それは古澤だけではなかったことだろう。矢部八重吉も、丸井清泰も、大槻憲二も、そして中村古峡も、私は日本の精神分析運動を推し進めてきた彼らの熱量に圧倒されるばかりだったが、しかし開拓者たちは孤独だった。――本の最後のページに日本精神分析学会が創設された時の古澤の写真がある。そこで彼は実に嬉しそうに笑っている。1955年10月23日、秋晴れの好天気に恵まれたその日、彼はもうひとりではなかった。精神分析を学ぼうとする多くの人々、250名をも超える人たちが集ったのである。

今、私がこうして孤独にならずに、時に孤独でいることを楽しみながら、精神分析を学び、実践できるのは、彼らが作り上げていった日本の精神分析コミュニティのおかげである。死者たちに心からの感謝を捧げたいと思う。

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