みすず書房

荒川洋治、「打上花火」を語る

荒川洋治『霧中の読書』

2019.10.11

先月のこと、FBCラジオ(福井放送)の番組「しあわせになるラジオ」に荒川洋治さんが出演していたのを知った。放送後一週間ならインターネットでさかのぼって聞けるのがありがたい。ホストのパックンが福井出身の荒川さんを招き、子供のころの風景の思い出や、詩をどのように書くのかを朗らかにたずねる。応じるゲストも明るい声なので気持ちがよかった。

にんまり聞いていたこちらが身を乗り出したのは、「荒川さんはどんな歌を好きなんですか~」という質問に、すかさず「そう、たとえば『打上花火』はいいよね」と答えたときである。思わずパックンといっしょに「えー!DAOKO×米津玄師の?」と心のなかで声を出していた。荒川洋治は、米津を好きだったのか。ところが詩人はすぐに「でも1回か2回しか聞いたことないんだけどね」と当方の勘ぐりを否定し、あの、言葉とメロディがぴったりしているところが素晴らしいと(いうようなことを)言いながら、なんと ♪パッと光って咲いた 花火を見ていた♪ とだけ、恥ずかしそうに歌ってみせたのだ。それから番組では「打上花火」が流された。

大晦日の紅白歌合戦で、徳島の大塚美術館からライブ放映された「Lemon」を見聞きして以来、遅ればせの米津ファンになった者として、興味をもってくれそうな相手にその良さを伝えようとして、そのたびに失敗している。なのに詩人は「詞と節がぴったり」という一言でみごとに言い当てた。そうか、「Lemon」の ♪雨が降り止むまでは帰れない 今でもあなたはわたしの光♪ にしても、「馬と鹿」の ♪終わるにはまだ早いだろう♪ にしても、一度聞いたらもうそれに替わる他のメロディは考えられない。たとえばジョン・レノンに匹敵する自然さだとわたしは思う。

荒川さんの散文集として小社からの三冊目に当たる『世に出ないことば』(2005年)に、一青窈のうたう「ハナミズキ」について一文があり、詞についてこう書かれている。「ことばと人の登場の順序がとてもきれいである。魅力的である。その人だけの道筋があるからだ。」ポップソングを聴きながら、こんなふうに考えるのは、長年にわたって文学の日本語をじっと見てきた、この書き手を置いて誰がいよう。

その前の本『忘れられる過去』に収められた「文学は実学である」の最初を引用したい。「この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。」才覚に恵まれた人による、ほんとうの現実の開示!

こんどの『霧中の読書』が出来た日、書店用のサイン本をお願いして会社まで来ていただいた。終了後、福井放送のトークを聞きましたと伝えて、「米津玄師、すごいですよね」と言ったら、詩人の目がフッと遠くなった。察するに、「打上花火」の歌詞とメロディを敏感にとらえていても、スターそのものにはあまり関心がないのだろう。森高千里も一青窈も米津玄師も、荒川洋治にとっては、日本語をふかくゆたかにする「ことばの使い手」として存在する。そしてこの感覚は、『霧中の読書』の最後に登場する、若い母親に連れられた、まだ小さな女の子が、橋を渡るランドセルの子を見て、「あ、小学生だ!」と小さく叫ぶことばにも平等に反応するのである。