みすず書房

中国人が大切にしてきたもの

崔岱遠『中国くいしんぼう辞典』 李楊樺画 川浩二訳

2019.10.23

土地によって気候も文化もさまざまな中国で、多くのくいしんぼうたちの胃袋をつかんだ食エッセイ『中国くいしんぼう辞典』。
訳者の川浩二さんによる本書の紹介を以下に掲載します。

中国の食べ物に関するエッセイといえば、邱永漢『食は広州に在り』がおそらく日本でもっともよく知られた本だろう。ただし『食は広州に在り』も、また陳舜臣・錦墩『美味方丈記』や張競『中国人の胃袋』にしても、みな日本語で書かれたものだ。中国語からの翻訳となると、『随園食単』をはじめとした近代以前の書物や食物史を扱う著作に止まる。

しかしここ十年ほどの間に、中国では食べ物についての書籍がたいへん流行し、おもしろい本が出てきている。本書の原著『吃貨辞典』もそのうちの1冊で、2014年に出版されて話題になって以来、現在でも版を重ねている。

著者崔岱遠氏もまえがきで述べている通り、本書は家・街角・レストランという章立てに特徴があり、土地の人間以外には分かりにくい、ある食べ物を取り巻く環境がよく分かる作りになっている。

著者の地元である北京のローカルフードも、中国全土の読者にとっては必ずしも親しみ深いものではない。たとえば北京を訪れた観光客がしばしば口にするだろう炸醬麵ひとつとっても、ひと昔前までは家庭の味であり、季節に応じて付け合わせを変えて大切に食べられてきたことを、本書を通して知ることができる。

他の料理についても同様で、著者自身の思い入れがあるものだけが選ばれており、ふさわしい季節やシチュエーションが語られ、ときに個人的なエピソードが披露される。そして地元らしさのあるささやかな食べ物とその昔ながらの作り方が埋もれていきつつあることに対する哀惜は、おそらく日本の多くの読者も共有できるものではないだろうか。

崔岱遠氏は1968年生まれ、紫禁城のすぐ隣の南池子で育った生粋の北京っ子で、現在は書籍編集を本業としながら、北京の古い習俗や食べ物に関するエッセイを執筆する文筆家としても活躍されている。

2019年8月29日、著者から本書について直接お話をうかがう機会を得た。そのさい北京の商務印書館にてインタビューをした後に、京倫飯店内の北京料理レストラン四合軒で食事の席をともにさせていただいた。崔氏は文章の通り人品も語り口も闊達で明朗、ときに細部にわたるこだわりをも披露してくださった。

そこでうかがったことの一つが、本書では残念ながら扱われない、レストランでの注文「点菜(ディエンツァイ)」についてだった。中国各地のレストランでは、金額と内容の決まったセットがあるほうが珍しく、ほとんどアラカルトで注文する必要がある。その日の食卓をまかなうに足る注文を膨大なメニューの中から選び取ることは、日本人どころか地元以外の中国人の客にとっても非常に難しい。

崔氏はそれこそ点菜は一種の「学問」ですらあり、地域によっても違いがあるので一口には言えない、とまず断りを入れた。その上で、はじめに運ばれる冷菜と後に順を追ってやってくる熱菜それぞれの中での「葷素(フンスー)」、つまり肉や魚の料理と野菜や豆腐などの料理の取り合わせ、「鹹甜(シエンティエン)」塩辛いものと甘いもの、調理法を含めた味つけが重ならないようバランスを取ること、さらに素材の季節を重んじることが原則であると明快に説明してくれた。

いわば実践編としての当夜のメニューには、本書の「家で食べる」に載る豆児醬をはじめとする冷菜、「街角で食べる」から炸灌腸や豆汁児、驢打滾児なども出され、「飯店で食べる」からは烤鴨と、すでに本文を読まれた読者には名前に見覚えのあるだろう品々が並んだ。加えて山東料理の名菜である糟溜魚片(ザオリウユーピエン/白身魚の薄切りとキクラゲの酒粕風味)や宮廷料理に由来するという抓炒蝦球(ジュアチャオシアチウ/醬油風味のたれをからめたエビの揚げもの)も運ばれた。主食はとくに刻んだ茴香(ホイシアン)の葉と茎のみの餡の水餃子にして、脂の濃厚な烤鴨との対比が図られていた。どの料理も流行りの華美な盛りつけとは無縁で、端正な見た目とそれにふさわしい繊細な味わいが記憶に残っている。

当日は本書のイラストを担当した李楊樺氏も同席され、料理を口に運ぶさいはもちろん、きれいな盛りつけを前にした時にじっと集中する様子が印象的だった。彼女の素朴で柔らかいが的確なタッチのイラストは、それぞれの料理になじみが少ない時、特に想像の助けになってくれるに違いない。

本書は2014年に出版された原著『吃貨辞典』に拠り、内容の省略や入れ替えはしていない。ルビは標準語で付したが、必要に応じて上海語、広東語のルビをつけた部分もある。料理の内容を含めて、注はできる限り簡略にとどめた。なお、原著の索引がアルファベット順であったところを、日本語版では「菜単(登場料理名一覧)」とし、主材料によって分類して掲載することで読者の便をはかった。

本書がお気に召すようなくいしんぼうなら、北京や上海はもちろん、その先にはるかに広がる中国各地の食べ物もきっと口に合うはずだ。ぜひ行って、食べて、また本書を読んでほしい。きっと一度目には味わい切れていなかった文章が見つかるだろう。辞典とはそういうものだし、その意味でもやはり、本書は辞典の名にふさわしい。

(巻末「訳者あとがき」より一部抜粋)
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