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アブラハム・パイスとニールス・ボーア

理論物理学から物理学史へ(抄)

山本義隆

アブラハム・パイスの名は、アインシュタイン伝として評価の高い『神は老獪にして』(産業図書)の著者として、一般には知られている。同書の読者であれば、それが伝記作家やジャーナリストの手になる伝記ではないことをご存知だろう。実際、同書には、アインシュタインの量子論への貢献や一般相対論の形成が正確かつ詳細に記されているばかりか、アインシュタイン以後の宇宙論や重力理論の発展にも叙述が及んでいる。並みの歴史家の真似のできないところである。
そう、自伝『二大陸物語』(邦訳『物理学者たちの二〇世紀』朝日新聞社)に「私は、人生の大半を理論物理学を職業として過ごし、この分野での革命的発展に精力的にかかわってきた」(p. 4)とあるように、パイスはバリバリの理論物理学者であった。朝永振一郎のノーベル賞講演には「1946年になって坂田〔昌一〕がいわゆる凝集力の場という考えを導入し、電子の無限大を消し去るひとつの有望な提案をしました。……これと同じ考えが、坂田と独立にアメリカでパイスによって提案されていたことが後でわかりました」とある。パイスの仕事は日本でも早くから知られていた。
1953年には京都の国際会議に招待されて来日し、その後も、70年代末まで第一線で活躍している。『二大陸物語』によれば、素粒子物理学で現在広く使われている用語「レプトン(軽粒子)」「バリオン(重粒子)」は彼の造語だという。
とはいえ彼のアインシュタイン伝や、今回訳されたボーア伝『ニールス・ボーアの時代』、あるいは昨年オックスフォード大学出版局から出た遺稿のオッペンハイマー伝、そして20世紀物理学史の大著INWARD BOUNDは、物理学者の片手間仕事ではない。「1978年以降は、科学の歴史をテーマとした本の執筆にもっぱら打ち込んでいる」と『二大陸物語』にあるように(p. 102)、これらの著書は科学史に転向したのち「歴史家」として正面から取り組んだ力作(magnum opus)である。

パイスのボーア伝は、『ニールス・ボーアの時代』の標題が示すように、単に成功した物理学者としてのボーアだけではなく、時代の中の人としてのボーアの全身像を描き出そうとしたものである。核エネルギーの国際管理にむけて情報公開を訴えたボーアを「グラスノスチの先駆者」としてはじめて評価したのは、本書である。
それにしても本書でパイスが量子力学の代表的な教科書としてディラックとファインマンの書とならんで朝永振一郎の『量子力学』を挙げているのは、正直ちょっとうれしい。何よりもパイスのセンスをうかがわせる。
一冊だった原著が邦訳では分冊になったが、下巻も遅滞なく出していただけるとありがたい。

copyright Yamamoto Yoshitaka 2007

(このエッセイの全文は、出版梓会発行のタブロイド版出版情報紙『出版ダイジェスト』みすず書房特集版2007年12月20日号でお読みになれます)

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