トピックス
A・パイス『ニールス・ボーアの時代』
物理学・哲学・国家 2
西尾成子・今野宏之・山口雄仁訳 [16日刊・全2巻完結]
量子力学の建設と「コペンハーゲン精神」の形成から、第二次世界大戦時の亡命生活を経て、冷戦下における、核をめぐる東西間の情報公開の提唱まで。20世紀物理学の巨人ボーアの決定的伝記、全2巻の完結。
巻末「訳者あとがき」から
西尾成子
量子力学の解釈をめぐるアインシュタインとボーアの論争は有名であるが、それがボーアにとってどんな意味をもっていたか、かつて、ボーアの没後まもなく出版されたS. ローゼンタール編、豊田利幸訳『ニールス・ボーア』(岩波書店、1970、原著1964)を読んだときに強く印象に残った話がある。多くのスポーツで選手が試合場に入る前に準備体操をするのとちょうど同じように、ボーアはまず、量子力学の内容が理解され受け入れられる前に起こった闘争を追体験するのがつねであった。ボーアの心の中でこの闘争が毎日毎日起こっていた。これこそがボーアの人間性の尽きぬ源泉であった。アインシュタインはいつでも彼の指導的な精神的錬磨の相手であった。アインシュタインの死後においてでさえ、ボーアはあたかもアインシュタインがまだ生きているかのように彼と議論していた。というのである。
これを書いたのがパイスであったことを、本書第1章を読んで思い出した。第1章には、ローゼンタール編の本へのパイスの寄稿「戦後の時代の思い出」がほとんどそのまま再録されている。
パイスは、ユトレヒト大学のL. ローゼンフェルトのもとで1941年に学位を取得後、ナチスドイツの占領下で地下生活を送り、ついにはゲジュタボに捕らえられるという過酷な生活を強いられたが、九死に一生をえた。戦後、学位取得後の研究にまず、1946年1月からコペンハーゲンのボーア研究所に滞在した。彼は、外国からの比較的長期間にわたってボーア研究所に滞在した、戦後世代の第1号であった。その年の秋には、プリンストン高等研究所に移り、つづいてそこの所員、1950年教授となった。そこでアインシュタインともオッペンハイマーともしばしば会話し、親しく接する機会をもった。
ボーアもよくプリンストンを訪れた。パイスはボーアとコペンハーゲンでもプリンストンでも共同作業を行なっている。最初の仕事は、ケンブリッジで開かれた、基本的粒子についての国際会議で行なうボーアの開会講演の準備、プリンストンでは国連への公開書簡のもとになる覚書の準備であった。共同作業のはじめの段階で、パイスはボーアの考え方についてゆけず当惑した(アインシュタインと最初話したときにも同じ思いをした)と言う。量子力学をすでに出来上がったものとして受けとったパイスの世代にとって、古典物理学から量子力学への変化が、1925年に起こった物理学における革命の担い手たちとその身近な証人たちにいかに深刻な影響を与えたかを、見抜いていなかったし、見抜けなかったからである、と。
パイスは、ボーアの「日々の苦闘」をいつも側らで目にしていたことで、物理学の歴史に対する理解のみならず、物理学そのものについての理解も深められた、と言う。「事実、ボーアが多くの時間をかけて私に相補性について説明してくれたことによって、私の考えのあらゆる面で何にも捕らわれない自由な発想ができるようになった。」
アインシュタインやボーアに接することのできたパイスの世代にしてそうだったのであるから、パイスより後の世代の物理学者たちにとってはなおさらボーアについて理解できなくなっている。どうしてそのようなことになったのか、それに答えたくて、このボーア伝を書く気になった、とパイスは言う。彼はまた、自分の得た貴重な経験を後の世代の物理学者たちに伝えたかったとも言っている。
ボーアやアインシュタインの研究をすることは、現在の物理学がボーアやアインシュタインの時代の物理学からいかに変質してきたかを明らかにすることにもなる。物理学とは何だろうか、を問うことでもある。
パイスは、アインシュタイン研究のなかで次のように言っている。プリンストンでアインシュタインと親しく話しているあいだは、彼を過去の人としてではなく、したがってアインシュタインの書いた論文を読んだこともなく(それらの研究はすでにのり越えられていると思っていたので、読む必要もないと思っていた)、現在の物理学について話し合った。年が経つにつれてアインシュタインの論文を読み、歴史的人物としての彼への興味が増した。彼の人と学問をおわりからはじめにたどってみて、次第に過去の科学を研究する際の最も難しい仕事に気づくようになった。すなわち、それより後に起こったことについて一時的に忘れるということである。アインシュタイン研究の情報源として、アインシュタインの論文、アインシュタインアーカイヴの文書史料、アインシュタインを知る人との議論、個人的回想、などが役立ったが、そのなかで最も重要なのは論文の研究であった、と。
科学史研究の契機には多かれ少なかれ現在の科学への批判・反省がある。科学史研究において最も基本的で重要なのは歴史的人物が書いた論文を読むことである。そのときに、現役の物理学者であったパイスには、それ以後に「起こったことについて一時的に忘れること」が最も難しいことだったのだ。パイスは当時の物理学の状況をわかりやすく解説しながら、アインシュタインやボーアの論文を物理的にわかりやすく分析しているが、それは、パイスのように現役の物理学者を経験していない多くの科学史家には及ばない、すぐれたものである。しかし、それをすることは、それより後に起こったことについて忘れてしまっては、とても難しいことなのだ。彼はアインシュタイン伝の準備を始めてからは物理の研究をやめて、科学史の研究に専念した。物理の片手間に科学史はできなかったのである。
それにしても、ボーアという人は、なんて個性的で超人的とも言える大きな人だったのだろう。まず、必ず誰かを自分の研究に巻き込む独特の研究のスタイルに驚かされる。たとえば、1930年代の中頃から、ボーアは、複合核の考えにもとづく原子核反応の研究を、F. カルカーという若い有能なデンマーク物理学者とともにはじめ、成果を上げつつあった。ところが、カルカーの突然の死によって、その研究は終わってしまったのである。ボーアの研究資金調達力も群を抜いている。また、亡命科学者の救援に奔走する。原子爆弾製造計画を知ると、その脅威をいちはやく覚り、その情報を東側(ソ連)にも公開しておくことが戦後の核競争を防ぐための好機であると考えた。ただちに自分の考えを伝え説得しようと指導的政治家、米英の両首脳、ローズベルトとチャーチル、にまで、臆することなく会いに行く。その行動力たるや目を見張るばかりである。ここにボーアの活動のほんの一端をあげてみたが、本書はそんなボーアとその時代を見事に描いていると思う。
copyright Nishio Shigeko 2012
『ニールス・ボーアの時代』 2 目次
〔星印(*)の付された節が専門的に過ぎると感じる読者は
これを飛ばして読み進めていただきたい〕
- 13 「それで全体像がすっかり変わるのです」――量子力学の発見
- (a) 最後に――「原子理論の演出家」を振り返る
- (b) 1924年のクラマース
- (c) 1924年のハイゼンベルク
- (d) 1925年――どのようにして量子力学が「霧の中からかすかにぼんやりと」姿を現わしたか(*)
- (e) ボーアの最初の反応
- (f) 1926年初頭――量子力学の二度目の出現
- (g) 1926年夏――ボルンと確率、因果律、決定論
- (h) 付録――初歩から学びたい人たちのためのc数とq数
- 14 コペンハーゲン精神
- (a) 1926年のコペンハーゲン・チーム。ハイゼンベルクがヘリウム・パズルを解決
- (b) シュレーディンガーの滞在
- (c) 相補性への前奏曲。ボーアとハイゼンベルクの問答
- (d) 不確定性関係。対応原理再考
- 15 原子核への探求
- (a) ボーアと彼の弟子たちは新しい分野へ踏み込む
- (b) 理論核物理学――前史
- (c) 大いなる躍進――化学元素の最初の人工変換と新しい力の最初の徴候
- 大いなる混迷――原子核の陽子‐電子モデル
- (d) 量子力学が明らかにした原子核のパラドクスと、中性子の発見
- (e) ボーア一家が名誉の館に引っ越す
- (f) ボーアが原子核の諸問題を手がける
- (g) 戦争と戦後時代への序章
- 16 ボーアのスタイルで物理学の最先端へ、そしてもうすこし先へと
- (a) 粒子と場
- (b) QED(*)
- (c) スピン(続き)・陽電子・中間子(*)
- (d) ボーアのQED研究(*)
- (e) ボーアと1929年の危機――ニュートリノ
- 17 1930年代における物理学と生物学の実験研究の発展
- (a) 四つの決定的要因
- (b) 最初の加速器
- (c) 舵取りをするウィーヴァー
- (d) ドイツにおける憂慮すべき事態
- (e) ボーアとロックフェラー財団の緊急特別プログラム
- (f) 誘導放射能の発見
- (g) 四つの決定的要因
- (h) ヘヴェシーが生物学に同位体トレーサーを導入する
- (i) 資金調達人としてのボーア(続き)
- (j) デンマーク初の加速器と第五の決定的要因
- 18 悲しい出来事と大きな旅行
- (a) 悲しみの日々
- (b) 多くの旅行
- 19 「われわれは言葉の中を浮遊している」
- (a) ボーアと哲学――「哲学は、ある意味で、私の生命でした」
- (b) 相補性(続き)。さらに、ボーア‐アインシュタイン論争。「現象」の新しい定義
- (c) ボーアと統計力学
- (d) 相補主義
- 1. はじめに/2. 心理学/3. 生物学/4. 人間の文化/5. 結論――言葉
- 20 核分裂
- (a) その初期、ボーアによるウラニウム235の役割の発見など
- (b) コペンハーゲンにおける核分裂研究
- (c) 原子エネルギーか? 原子兵器か?
- (d) デンマーク王立科学院院長としてのボーア
- 21 「情報公開(グラスノスチ)」の先駆者としてのボーア
- (a) はじめに
- (b) 1864年11月16日から1945年5月4日までのデンマークとドイツ
- (c) 戦時中のボーア、スカンディナヴィアにおけるエピソード
- 1. 研究活動の続行/2. ハイゼンベルクの来訪/3. 英国からの手紙/4. スウェーデンでの幕間劇/5. 研究所の運命
- (d) 戦争中のボーア、英国と米国におけるエピソード
- 1. 英国へ/2. 1943年10月までの英米両国の原爆開発への取り組み/3. ロンドンからニューヨークへ/4. 原子兵器計画におけるボーアの役割
- (e) ボーア、チャーチル、ローズヴェルト、そして原子爆弾
- 1. 情報公開1944年/2. ハリファックス駐米大使、フランクファーター判事との出会い/3. カピッツァの手紙/4. ボーア、チャーチルに会う/5. ボーア、ローズヴェルトに会う/6. 結末/7. 帰国
- 22 全力をあげて行動しつつ晩年を迎えたボーア
- (a) プロローグ
- (b) 晩年の著作、1945‐62年
- 1. 物理学の研究論文/2. 物理学における相補性の議論/3. 物理学以外の分野における相補性/4. 講演活動/5. 追悼文など
- (c) 1950年のグラスノスチ(情報公開)――ボーアの国連への公開書簡
- (d) CERN
- (e) Nordita(ノルディタ)
- (f) リソー
- 1. 国立研究所/2. ニールス・ボーア研究所の新しい役割/3. 1989年現在のリソー
- (g) 晩年の旅行
- (h) 最後の半年
- 23 エピローグ
- 付録 年表形式による本書の梗概
- 訳者あとがき
- 人名索引
- 事項索引
- N・ボーア『原子理論と自然記述』井上健訳はこちら
- M・ボルン『現代物理学』鈴木・金関訳はこちら
- W・ハイゼンベルク『部分と全体』山崎和夫訳はこちら
- W・ハイゼンベルクの本はこちら
- 『仁科芳雄往復書簡集』全3巻・補巻1 はこちら
- 朝永振一郎の本はこちら
- E・セグレ『X線からクォークまで』久保・矢崎訳はこちら
- 『物理学者ランダウ』佐々木・山本・桑野編訳はこちら

