みすず書房

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トリーシャ・ローズ『ブラック・ノイズ』

(訳者より、解説・紹介のエッセイをおよせいただきました)

新田啓子

“ブラックCNN”、“アンダーグラウンド・ルポルタージュ”、“チョコレート・スーパーハイウェイ”……ラップ・ミュージックの役割が、アメリカ黒人の境遇を伝えるインフォメーション・ソースであるということは、多くのラッパー、そして黒人知識人によって、さまざまな形で語られてきた。

〈ラップは「黒人のアンダークラスが知り得ない現実」をじかに見つめている。……権利を剥奪され、疎外された者たちが、さらに悪化する自分たちの状況を知れば知るほど、ラップが発する、切羽詰まって神経質な、しかし実生活には前向きな声の重要性はますます高くなる。〉(エピローグより)

しかしラップは、そもそもニューヨーク市のサウスブロンクス、ハーレム、ブルックリンといった特定の地域で地元の利害や懸案を語り、仲間内の楽しみを伝えるものだった。だからそれは、しばしばよそ者には意味不明のスラングをまくしたて、すぐにはわからない事柄について歌っていることも多かった。そんなローカルな声が全米に、そしてグローバルに響き渡る変化を目の当たりにし、トリーシャ・ローズはラップの研究を志した。文化的価値の未知数なラップという研究対象をめぐって、大学院で教授との論争は絶えなかったという。1980年代後半のことである。

いまではラップは、世界各地で独自の意匠と目的を受け止めながら、表現文化のメインストリームに君臨している。何がそれを可能としたのか。ラップの形成、発展、そして受容は、まず、アフリカ系の人々とその文化の越境、つまりアフロディアスポラという基盤に多くを負っていた。また、それ自体がアフロディアスポラの重要拠点であるニューヨーク、1970年代のランドスケイプで育ったヒップホップ・カルチャーは、経済とテクノロジーの構造変化が貧困層に与えた打撃をいち早く伝える役割を果たした。現代の都市に生きる多くの人々がそれに応答し、共有された感懐が連鎖的に発せられれば、ローカルなスラングを乗り越えた共通言語が派生するのはもう時間の問題だ。

ラップ、ブレイクダンス、グラフィティという三つの流れを持つヒップホップだが、ローズは特に、サウンドと詩からなるラップを重視する。若者に自己主張や抵抗の言葉を伝授し、表現の可能性を拡大したその形式は、わからない言葉を粘り強く聴き、理解することを我々読者にも要請する。当初、単なる一過性の流行だろうと囁かれたラップを、これほどまでに定着させた創造性とダイナミズム。それこそは、タフな聴く耳を持つ者に新たな世界像を約束する豊穣な言葉と、体を揺さぶらずにはおかないリズムの脈動に根ざしている。アメリカで主要な黒人女性知識人として精力的に活動するローズが、その音楽のパワーをもって文化研究の重要テーマを切り開き、揺るぎない評価を得たのが本書である。

copyright Nitta Keiko 2009




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