みすず書房

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小羽俊士『境界性パーソナリティ障害』

疾患の全体像と精神療法の基礎知識

(著者からエッセイをお寄せいただきました)

精神療法の必要性と有効性

――境界性パーソナリティ障害に関連して
小羽俊士

精神科の治療は、ここ数十年で見違えるほど様変わりしてきただろう。主として統合失調症など重症の慢性精神疾患に対して、ほとんど計画的な治療はなされず収容くらいしかしていなかった時代は過ぎ去り、積極的かつ計画的な治療がなされるようになってきた。それにともない、うつ病、神経症、パーソナリティ障害などといった非精神病性の精神科疾患が治療の対象として大きな位置を占めるようになり、より軽症な疾患を持った人たちが比較的気軽に精神科の治療を受けられるようになった。実際、街中にある精神科クリニックのほとんどでは、その通院患者の大部分が非精神病性精神疾患患者であろう。こうして、過去の精神科医療にあったような暗く閉鎖的な雰囲気はだいぶ払拭されてきたように感じる。

このように精神科医療が大きく変化してきた背景として、副作用が少なく安全性の高い向精神薬が次々と開発され、気軽に使用できるようになってきたという要素が大きいであろう。確かに最近の薬物療法の発展は素晴らしい。しかし、このことは同時に精神科で行う治療は薬物療法しかないかのようなおかしな錯覚を生み出してもいるような気がしてならない。精神科の治療には薬物療法と同時に精神療法もあるという事実を、患者も医療従事者も忘れかけているかのようである。実際、米国では精神科医の卒後教育にフォーマルな精神療法(認知行動療法、精神力動的精神療法、支持的精神療法、精神療法+薬物療法)がしっかり行えるようにすべきとされている。しかし、日本の精神科医の卒後教育の中で、精神療法についての教育訓練をしっかり受けることができた人がどのくらいの割合でいるだろうか?

境界性パーソナリティ障害は薬物療法がほとんど役に立たない。これまでの主として米国での多くの研究結果が示しているように、長期に渡る精神療法を延々と続けていくことでしか、本来的な意味での「治療」はありえない。このため境界性パーソナリティ障害の治療にあたる専門家は嫌でも精神科医療の忘れかけられているもう一つの側面である精神療法の重要性と向き合わなくてはならなくなるであろう。精神療法はどのようなことが治療的であり、どのようなことが反治療的であるのか? どのような効果があるのか? それをどのように検証していくのか? そもそも精神療法とは何なのか? 境界性パーソナリティ障害を治療するにあたっては、こうした全てのことを考えざるを得ないのである。精神療法の世界では、ともすると治療効果の検証を軽視するところがあった。そもそもそういう「治療」ではないのだというスタンスの治療者さえ精神分析家の中にはいたりする。しかし、少なくとも境界性パーソナリティ障害の患者の苦しみを前に、治療になるかならないか分からないことを延々と続けることはできないであろう。そんなことは非倫理的である。これまで精神力動的精神療法が対象としてきた心の問題の中で、境界性パーソナリティ障害の問題が特に早期から実証的研究の対象にされてきたのもそんな理由なのであろう。




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