みすず書房

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池澤夏樹『嵐の夜の読書』

かくべつの興味をひく、楽屋裏の〈ネタ〉もないし、こういう多岐にわたるテーマを扱った本を宣伝するのはむつかしい。なにしろ当代一流の〈読み巧者〉による10年間の書評を集成した一冊なのだから中身が濃いし、守備範囲も広い。

池澤夏樹という作家・評論家を考えると、なぜか〈貴種流離譚〉とか〈オデュッセイア〉ということばがまず浮かぶ。あまたの冒険を経験し成功を収め、やがてめでたく故郷に帰還する物語。冒険や成功はともかく、池澤氏も北海道に生まれ、東京に出てギリシアに渡り、やがて沖縄に移って、ついでパリへ飛び、いまはふたたび札幌に住む。定住とは縁が薄いようである。

これらの旅=移住のプロセスで作家はさまざまなトポス=場所の精霊と対話を交わしたはずである。北海道は知里幸恵、アイヌ問題、『静かな大地』があり、沖縄はサトウキビ刈りと『カデナ』、ギリシアはもちろんダレルの『アレクサンドリア』とカヴァフィス、そしてパリからは刺戟的なレポートがあった。トポスとの対話は時代を読むこと・創造と深くつながっている。

世紀をまたぐこの10年間は、悲惨な9・11を含み、まことに激動の時代であった。とうぜん優れた文学・思想もこの暗い時代に真摯に向き合うことになる。かかる時、大仰な言い方をすれば、書評家とは時代と平行して多様なトポス(諸作品の風土)を探査する旅人=冒険家であろう。

「この10年、ぼくは嵐の夜にがたがた鳴る鎧戸の音を無視して本を読むスヌーピーであった」――丸谷才一・日野啓三・髙村薫からピンチョン・ブローティガン・ソンタグへ。激しい吹雪を予感しながら本を読みつつ旅をすること。『嵐の夜の読書』を手にするひとはこの多難であった10年をふたたび辿りなおす旅に出ることになる。




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