みすず書房

トピックス

北山修『最後の授業』

この春、九州大学を退官された精神科医・北山修氏の最終講義、最後の授業をノーカットで一挙掲載!

■北山修『最後の授業――心をみる人たちへ』 7月21日刊

「心とは意味に満ち満ちているものです。私は、心はなにかを思い、そして意味しようとしている装置であると思っています。(…)ここでは精神分析の観点を強調するために単純化して、「心とは裏の意味である」という定義に焦点づけたい。それは、「何々とかけて何々と解く、してその心は」というときの心ですね。この心は表にははっきりとあらわれていない。こういう、表に出にくい心の部分を私たちは取り扱っているのです。
だから、言ってみればこの授業の総合タイトルは「裏をめぐって」です」
(第 I 部「テレビのための精神分析入門」12-13頁)

と、授業の冒頭で多義的な「心」という言葉について、空間的なイメージを提示し、つづけて「裏の意味」から連想して、「うら悲しい」「うら寂しい」という時の日本語の「うら」は「心」という字であること、だから我れ知らずにじみ出る感情は、心の中でも「裏側」から生まれてきているように日本人は感じてきたのだ、と語りかける。
著者は半ば冗談、半ば真面目な調子でこう言っていた「私のセオリーは駄洒落みたいなところから生まれる」。たしかに。でも、「北山修セオリー」には駄洒落として聞き流せない切実さがあって、聴いた者は笑うよりもしんとなる。

第 II 部「〈私〉の精神分析――罪悪感をめぐって」では、著者のライフワークである『古事記』の読み取りが紹介されてゆく。上巻冒頭の国の誕生を描き出す「伊邪那岐・伊邪那美神話」で、母神・伊邪那美が最後に火の神を産んで死んでいく、その場面について――

「お母さんの陰、生殖器から生まれるわけですけど、そのときに大やけどして伊邪那美が死んでしまう。おそらく大量出血で亡くなったのですが、その赤い血が赤い火に置き換えられたのでしょう」
(第 II 部「〈私〉の精神分析」110頁)

ここでも火から血への連想が働いている。この連想は、もうひとつのライフワークである「鶴の恩返し」の読み取りの、あっと驚く場面展開につながっていく。そしてこの最後の講義では、さらに連想は翼を広げ、まるで世界の物語がひとつになるようなヴィジョンが開かれるのだ……!

著者の神話や昔話の読み取りは、詩的だ。人が聞いているのに聞こえていない音、見えているのに見過ごしてる色や形や風景に、耳や目が自然に反応し、イメージが跳躍するのだろう。

「芸術家の抑圧が「もろい」という(フロイトの)観察は、私に関する限り正しくて、そのために色んなことが思い浮かぶために、連想は豊富かもしれないが、それをとりまとめる段階で「言い間違い」や失言などが生まれやすい。そこが、私が粗忽であるという悩ましい側面ですね(笑)」
(第 III 部「「精神分析か芸術家か」の葛藤」117 頁)

精神科医として、作詞家として、人の心を大きな広がりでとらえてきた著者の詩的な想像力は、精神分析の父であり母であるフロイトの「自由に連想しなさい」という声に祝福されたといえるかもしれない。その実りとしての「最後の授業」の時間を、笑ったりしんとなったりしながら味わってほしい。

■NHK教育テレビ「北山修 最後の授業」放送予定

NHK教育テレビ(ETV)で7月26日(月)‐29日(木)夜22:25‐22:50、「北山修 最後の授業」(全四回)が放映の予定です。再放送は8月2日(月)‐5日(木)早朝5:35からの予定です。
http://www3.nhk.or.jp/hensei/program/p/20100726/001/33-2225.html




その他のトピックス