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ジャット『荒廃する世界のなかで』

これからの「社会民主主義」を語ろう 森本醇訳

トニー・ジャットの名を知ったのは、彼の盟友ともいうべきティモシー・ガートン・アッシュが『ヨーロッパ戦後史』を2005年に出た本の収穫としてTLS紙で挙げたときである。同年に小社から邦訳が出たサイードの遺著『オスロからイラクへ』序文の末尾に「トニー・ジュッド」と表記される、ニューヨーク在住のこの歴史家・思想史家の来歴について、その時点ではほとんど知らなかった。

『戦後史』は1000頁を越える大著である。それゆえ翻訳刊行まで時間を要したが、編集作業の合間にジャット(この読み方は問い合わせて判明した)がこれまでに書いた本や『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』に寄せるエッセイを通して、だんだん輪郭がみえてきた。1948年ロンドン生まれのユダヤ系、ケンブリッジで博士号を取るまでに、イスラエルでキブツ体験、パリ留学。オックスフォードで哲学・政治学・経済学を教えていたが、1988年からニューヨーク大学教授。その間に東欧知識人と交流を深める。

要約すればこうなるのだろう。しかし『戦後史』をゲラで何度も読みながら気になったのは、もう少し個人的な感触であった。たとえば、映画の思い出(『自転車泥棒』でポスター貼りの男のみすぼらしい姿とポスターのリタ・ヘイワースの対比に着目したり、土曜日の映画上映会でみんなで歌う歌のことを回想したり、『マリア・ブラウンの結婚』を別格に好んだり…)。たとえば、ポップ・ミュージック(LPレコードの売り上げ実績分析、ビートルズの写真に彼らこそ「本物だった」とのキャプション…)。教授ジャットとしてでなく、一人の人間トニーは、どんな育ち方をしたんだろう?

今年の8月にトニー・ジャットは62歳で亡くなった。闘病中に口述筆記された自伝的エッセイ(単行本は来春に小社から刊行予定)には、ロンドンで育った団塊の世代の一員としての少年時代、青年時代が率直に語られている。バスや電車が大好きだったトニー、父親がシトロエン愛好会を率いるエピソード、初めて渡ったアメリカの衝撃(英語が通じない!)…。とりわけ印象的なのは、トニーの息子(再婚で得た、まだ思春期の)が「うちの親父は貧乏のなかで育ったんだ」と友達に言うのを聞いて、父トニーが「ちがう、俺は質素に育ったんだよ」とたしなめるところ。

ああ、これなんだと思う。功成り名遂げた知識人の内側に、戦後に生まれ育った「いいやつ」がいる。そして、難病で命を奪われるまえに二人の息子に捧げられたこの本『荒廃する世界のなかで』はこう説くのである。「今日日(きょうび)の金持ちは思い出せる限りのどの時代よりも裕福で人目を惹く存在になって」いて、わたしたちの社会全体が「深刻な浅ましさに陥っている」と。20世紀を振り返り、幾多の思想家を総動員して論じられる理論的な本書の記述の底流には、トニー・ジャットという個人のまなざしが行きわたっている。

編集部・尾方邦雄




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