みすず書房

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『他者の苦しみへの責任』

アーサー・クラインマン/ジョーン・クラインマン/ヴィーナ・ダス/ポール・ファーマー/マーガレット・ロック/E・ヴァレンタイン・ダニエル/タラル・アサド
坂川雅子訳 池澤夏樹解説

「苦しみ」に関する本だからこそ、この本の必要性についてこのタイミングで読者のみなさんに訴えるのは、容易ではないと感じている。これは「ソーシャル・サファリング」、つまり社会的・構造的につくられる苦しみについての本だ。日常の世界にグリッドのように組み込まれ、目に見えにくくなっている苦しみについての本なのだ。しかもハイチのエイズ患者や、インドの女性や、スリランカを追われたタミル人移民・難民など、日本人にとっては海のかなたの人々の苦しみがとりあげられている。いまこの瞬間にこの国で、身近な人々や同胞に対してこれほど圧倒的な破壊の力が及んでいるのを目前にして、「他者」の/日常化した/可視化されない苦しみについて腰を据えて考える余裕など、誰にも求めようがない。

しかしながら本書の出版に携わる者として、というより本を作ることを生業に選んだ者として、こんな非常時にも本の地力を信じている。半年先か、一年先かわからないが、震災の被災者の人たちの苦しみの一部も日常化し、透明になる段階がくることは疑いない。苦しみの「非伝達性」が当事者を一層苦しめることを、周囲の私たちが認識しなおさなければならない局面がかならず訪れる。そのときにこそ必要になる本書の視点の意義を確信しているし、それが多くの読者に見出され感応されうることを、いまは信じて送りだしたい。

収録されている六本の論文のうち、タラル・アサドとマーガレット・ロックの論文の内容については、それぞれアサド『世俗の形成』ロック『脳死と臓器移植の医療人類学』の紹介を直接参考にしてもらえると思う。ここではそのほかの四本について、それぞれ簡単にテーマと主張を紹介しておきたい。

まず、以下は大きな論点を打ちだしている二編。

苦しむ人々・衝撃的な映像 by アーサー・クラインマン、ジョーン・クラインマン

アメリカの写真家ケヴィン・カーターが飢餓に苦しむスーダンの幼児を撮った著名な報道写真を題材に、苦しみの「非伝達性」と他者性の捉えがたく越えがたい壁を描きだす。この壁の前で何ができるのかという、本書全体の基調をなすテーマを考えさせる論考。また、クラインマンらによる本書序文の主張もあわせて注目してほしい。今日の医学には病気を「不慮の災難」のように捉えて疫学的データと病理に還元する潮流があり、この潮流に平行して「苦しみ全般」をも不慮の災難と見なして社会的要因と切り離し、細分化して捉える傾向が強まっているとクラインマンらは指摘する。

人々の「苦しみ」と構造的暴力 by ポール・ファーマー

著者は世界各地の最貧困層の人々に対する医療支援を続けている医師である。ハイチにおけるエイズ蔓延や軍事組織によるリンチの横行をつぶさに報告し、貧困こそがそうしたローカルな社会的苦しみの根本要因であると訴える。著者は、苦しみの評価は数値評価にとどまらず、ローカルな社会の状況をふまえた質的・総合的評価でなければならないとしながらも、「極度の苦しみ」とそれ以外を分けて支援を優先づけする「トリアージ」が可能であり必要でもあるという考えを打ちだしている。読者にぜひ注目し議論してもらいたい論点だ。

以下は分析の方法論に特徴のある二編。

言語と身体 by ヴィーナ・ダス

インド・パキスタン分離独立の混乱期に、現在の国境の両側で多数の女性が暴行を受けた。女性たちがそれをいまも語れない理由は、暴行とナショナリズムの結びつきに関連していると著者は指摘する。そのような文化の内部にあって、被害者たちの苦しみの表現は直接の証言以外の形態をとらざるをえないという。自身インド人女性である著者は、同じ文化の内側にいる研究者ならではの感度と独特の論法で、「声なき者」の声の可視化を試みている。

悩める国家、疎外される人々 by E・ヴァレンタイン・ダニエル

スリランカを追われたタミル人移民の疎外の苦しみをとりあげる。彼らが国家や祖国を語る視点は、各人の移民の時期に応じて違っている。著者はその違いに着目し、彼らのアイデンティティのゆらぎを現象学的語彙を用いて丁寧にすくい取り、移民や難民の苦しみを慢性化させている、きわめてデリケートな社会状況を可視化している。けっして垢抜けた論考ではないが、人文科学が人道支援に直結する領域でやれること、やるべきこと、その一つの可能性を例示しているという意味で、ぜひ多くの読者に読んでもらいたい一編。




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