みすず書房

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『境界例研究の50年』

笠原嘉臨床論集

統合失調症やうつ病、双極性障害という診断名ではなく、境界例、境界パーソナリティ障害というのはネガティヴな概念に見える。古くは神経症と精神病の境界領域の症状を呈するところから「境界例(Borderline Case)」と呼ばれ、アメリカ精神医学会による「DSM-III(精神障害の診断と統計の手引き)」(1980)以来、パーソナリティ障害の一種として「境界パーソナリティ障害」と総称されるようになっている。症状としては行動化(アクティング・アウト)と呼ばれる衝動的行動や自傷行為、摂食障害から解離症状、対人関係不安などさまざまで、それらの症状の一端から統合失調症やうつ病の一例とみられることもあったり、心的外傷との関係も言われているが、既成の診断名では分類できないところが、この病気のわかりづらいところだ。ただ、何をもって「境界」なのかも不分明で、このネーミングで苦しんでいる患者や関係者の方も多くおられるのだろう。

書店には「境界性パーソナリティ障害」に関係する本も多く並んでいるが、長年の経験を積んだ医師が個別的な症状を厳密に診察し、そこから診断名をあたえ、それに適した精神療法や薬物療法をほどこさなければ、前には進まないだろう。

『境界例研究50年』というタイトルの本書は、文字通り50年にわたり現場で臨床にたずさわり、「境界例」概念の変遷やそれに応じた診断の変化を目の当たりにしてきた著者が、トレンドに振り回されることなく、説得的に論じたものである。

「看護教育の言う共感的な治療は境界例患者に対するとき無効あるいは有害なことが多い。言葉や感情よりも行動を重視し、行動によって医療者側の意思を示す。たとえば、リストカットや胃洗浄のとき、同情や反感抜きでテキパキと処置する。「この機会を利用しての」説教は百害あって一利ない。そもそも「察してあげる」のは境界例の彼(女)らにはよくない。そうするとその感情を固定化してしまう。心底腹が立てば、率直に腹を立ててよい。喧嘩のあとの仲直りは彼(女)らの得意とするところだ。現代のストーカーのように陰湿でないところが彼(女)らの美点である」

このような咄嗟の判断が生まれるのも、目の前にいる患者の症状をつぶさに観察し、そこから「境界例」であろうという判断を下し、それに対応した処置ができているからである。本書にはこのような言葉がいっぱい詰まっている。

本書のキーワードのひとつに「適切な治療距離」というものがある。著者がこの距離感を大切に考えるようになったのは、実際は精神病より一見コンタクトの取りやすい、それでいて近づき過ぎて、行動化を誘発する境界例での失敗経験があったからだった。長年の治療経験の総括としての、重みのあることばである。




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