みすず書房

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O・ハーマン『親切な進化生物学者』

ジョージ・プライスと利他行動の対価 垂水雄二訳

ジョージ・プライスが進化生物学という分野に出会ったとき、彼は母国アメリカを捨ててロンドンにやってきた孤独なアメリカ人で、四十過ぎにして失業中で、1日5ドルで暮らしていた。それまで彼はいつも、第一級の仕事を手がけては中途で放棄して人生をリセットし、そのたびに自身の境遇をますます悪くする、というパターンの繰り返しだった。マンハッタン計画の一員として携わった生化学研究も、ベル研究所でバーディーンとショックリーに頼まれた半導体特性の研究も、のちにCADとして世界を変える「設計機械」のアイデアも、「最適化問題」を応用してポール・サミュエルソンを驚かせた経済モデルも……。それらのプロジェクトを渡り歩くプライスの軌跡をたどれば、第二次大戦後のあらゆる科学的革新の現場を巡ることになるのだから驚きだ。

その遍歴のあげく流れついたロンドンで、ほとんど文無しのプライスは公共図書館に通って新たな研究の糸口を探しはじめる。「人類学、言語学、医学、神経生理学、心理学、行動学──手がかりになりうるものはなんでもよかった」──世界に自分を認めさせる研究に発展しそうな手がかりならば。ほとんどありえないことだが、彼はこのやり方でまたもやチャンスを掴む。図書館でビル・ハミルトンの画期的な理論に触発されたプライスは、それを手がかりに独自の推論を進めて論文にまとめ、ロンドン大学の人類遺伝学教室を飛び込みで訪ねた。主任教授に自分の論文を見せると、「90分後には」研究員のポストと部屋を割り当てられていた。「それはジョージ・プライスが待ち望んでいた奇跡だった。」

じつはそこにあったのは、何度目かの再浮上で学術的に成功したというような、表層的な「奇跡」ではない。本書でプライスの進化理論の中味に分け入ってみると、彼がそれまでの支離滅裂とも見える人生で獲得したバラバラの概念や認識が、まさしく奇跡のように一つの理論に収斂していることに気づく。ほんとうは決して奇跡ではなく、力で手繰り寄せるものではあるけれど、それでもまるで奇跡のようにしか起こらない収斂。研究者は誰しも、いや、創造的な仕事を志す者なら誰しも、そういう瞬間への期待と予感を抱えているものではないか。科学者の人生におけるその瞬間を、本書ほど劇的な形で追体験する読書はちょっと他にはないと思う。

しかしその「奇跡」も、ジョージ・プライスの人生で繰り返される浮上と自滅のパターンに、一番最後の、一番痛ましいエピソードを付け加えることになった。彼は自身の利他行動の進化理論への高まる評価にむしろ背を向けるようにして、キリスト教信仰にのめりこみ、ロンドンの貧民街で破滅的な利他主義を実践していく。著者は、「たとえ、考えうるあらゆる科学的疑問に対して答えられたとしても、生命の問題にはまだまったく手を触れることができていないだろう」というウィトゲンシュタインの言葉を引き、「〈ウィトゲンシュタインの壁〉に激突することによって、ジョージは私たちに、偉大な芸術作品と同じように、魂の奥底に直面したときの私たちの理性の限界がどこにあるかを教えてくれる」と評している。何重もの意味で、この本には想像を超える光景が描かれている。




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