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ダニエル・ジル『通訳翻訳訓練』
基本的概念とモデル 田辺希久子・中村昌弘・松縄順子訳
学習者にとっても指導者にとっても貴重な、汎用性の高い名テキスト。『通訳翻訳訓練』待望の刊行によせて、訳者から、その魅力のありかを伝えるひとことをこのウェブサイトのためにご執筆いただきました。
通訳・翻訳といういわば職人的な世界に
納得できなかった著者がまとめた代表作
田辺希久子
原著者ダニエル・ジルはパリ第3大学通訳翻訳高等学院(ESIT)教授。通訳翻訳研究Translation Studiesの世界では先駆的な実務家・研究者の一人で、本書は多くの研究論文に引用される彼の代表作である。
その概要をかいつまんで紹介すると――ジル氏はヨーロッパではよくある多言語話者で、独学で通訳者・翻訳者になった。しかしもともと数学を勉強していた人なので、通訳・翻訳という、いわば職人的な世界に納得できなかった。たとえば「通訳・翻訳で原文を変えても許されるのはなぜか」「同時通訳が難しいのはなぜか」といった、だれもがいだく素朴な疑問を、豊富な指導経験をとおして追究したのが本書である。
日本でもそうだが、学校での翻訳はなるべく逐語的に、辞書にあるとおりに訳すことが奨励される。ところがプロとしての通訳・翻訳は、たとえ「忠実」を旨としても、けっして逐語訳にはならない。ジルによれば、これはメッセージの核となる一次情報のほかに、メッセージの理解を助けたり、言語的・文化的なルールや個人の癖で付け加えられたりする二次情報があるためだ。一例を挙げると、英語ではbrotherでよくても、日本語に訳すときは兄か弟かをはっきりさせなければならない。この点を理解することが学校翻訳を脱却する第一歩なのだ。
また「同時通訳が難しいのはなぜか」という問題については、同時通訳者は常に認知能力ぎりぎりの状態で仕事をしているからと説明する(綱渡り仮説)。「聴き取り」「理解」「記憶」「訳出」といった複数の作業(努力)を並行して行わなければならないので、その間のバランスが崩れると訳出不能に陥る。例えば固有名詞は同時通訳の失敗の代表的な引き金のひとつだが、そこに没頭しすぎると、連鎖反応でまったく問題なく訳せるやさしい部分で失敗してしまう。同時通訳に高度の語学力は必須だが、注意をうまく配分する能力も求められるというわけだ。
以上はほんの一例で、他にも通訳・翻訳をめぐるさまざまな基本的問題に理論的でわかりやすい説明が用意されている。学習者にとっても指導者にとっても貴重な一冊である。
copyright Tanabe Kikuko 2012
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