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三浦哲哉『サスペンス映画史』

本書の趣旨について、めざされたことについて、何はともあれ著者ご本人に語っていただこう(三浦哲哉さんのtwitterでの発言をまとめました)。

『サスペンス映画史』の内容について若干。「画期的」かも、というコメントをいただきましたが、その「画期性」について。これまでに書かれたサスペンス論を総括し、それらとこの書物との間に断絶を標し、新しい何かを付け足す、という意味での「画期」、が最終的な目的では必ずしもない。

それは「引用」の作法にも関わることで、もしかしたらこの本があまり学術論文らしくない理由もここにあるのかもしれませんが、旧来の知見を総括し、それとは違う何か別のものを書く、という「更新」の手続きとは違うことをやりたかった。そこで得られる「新しさ」は「相対的な」新しさでしかないような気がした。これまでと違う何か、というときに、「これまで」を固定的な何かとして措定する、ということが、そもそも違うというか。そうではなく、何かを付け加えることで、歴史の総体に、一挙に、再配置が起きる、という意味での「絶対的」な新しさ、がありえるのではないか。

非力ながら、「構成」において念頭においていたのはそういうこと。過去の文献をいちいち参照し、見切り、乗り越え、ということではなくて、過去の諸文献、諸映像を一挙に新しく再配置する方法を模索したかった。

つまり、過去を否定することで自分の現在の新しさを誇示する、ということではなくて(そういう売り方も含め)、自分の書物によって、過去まで新しくなる、そういう書物、が手本としてあった。

その「絶対的な新しさ」の問題が、裏テーマとしてある。

それは、優れたサスペンス映画、たとえばグリフィスやヒッチコックが、なぜ何度見ても、結末を知っていても、いつの時代も、驚きと新鮮さを失わないのか、という問い(有名なサスペンスのパラドクス)と結びついている。

以上のご発言を受けて、ちょっと補足的なコメントを。「理念とは星座(配置)である」というベンヤミンの定義にしたがうならば、映画史の再配置をめざした本書は、いわば映画の理念を提示する試みであるといえよう。映画(なるもの)の理念、それがすなわち「サスペンス」である。
理念において、映画を見ることと本を読むことは似ている。どちらも、観客/読者を「サスペンス(=宙吊り)」の状態に置く。結末/結論が、わかっているのに、見せられる/読まされるという受動性のさなかで、どこへ連れていかれるのかわからなくなる寄る辺なさ、この臨場感こそが、サスペンスの真髄であろう。優れたサスペンス映画は何度見ても見飽きない。優れた書物も同様である。どうか映画を見るように、本書をくり返し繙いていただきたい。




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